セロ弾きのディレッタント
私は珈琲を淹れ、冷蔵庫に寄りかかりながら飲んだ。佐山さんが何も言おうとしないので、室内は静まり返っている。寂しいので音楽でも流したかったが、Kさんから怒られそうだったので、代わりに換気扇を回した。これで空気も綺麗になり、一石二鳥に違いない。
「――どうやら、答えられないようだな」
沈黙を破ったのは、Kさんだった。このまま待っても時間の無駄だと判断したようだ。メモ帳の頁を破り、それを佐山さんに渡した。
「これは?」
「藍子ちゃんと面談をして、私が感じたことを書き留めたものだ」
「これは面談だったんですか?」
「でないなら、何だと言うんだ。まさか、私が無駄話をしていたとでも思っているのか?」
「い、いえ、そんなことは……」
Kさんの迫力に、佐山さんはすっかりと怯えている。だが、私はそんな彼女のことを怖いとは思わなかった。普段優しい彼女の異なる魅力に、私は惹かれざるを得なかったのだ。
「君に与える第一の課題は、自己分析だ」
「私、自分のことはよく分かっているつもりですけど……」
「君は自分が何者か分かっていない。君がやっているのは、卑下だ。長所がない人間なんて存在しないんだ。だから、長所を探せ」
有無を言わせない強い口調だった。佐山さんは何度も素早く頷いた。
私は換気扇をとめ、代わりに窓を開け放った。やや強い風が吹き込み、髪が乱れた。ここしばらく切っていないので、すっかりと伸びた。これが女と勘違いされる所以だろうか。そろそろ、切ってもらおう。
「公二郎君」
不意に名前を呼ばれた。Kさんだった。
「何か?」
「藍子ちゃんに貸す本を部屋から運びたい。手伝ってくれ」
力仕事、か。男なら手伝うべきだな。男なら。
「先に行ってください。あとから行きます」
Kさんには先に行ってもらい、私は空になったカップを洗った。洗いものがシンクに残っているのは、あまり愉快なことではないからだ。
ノックしてからKさんの部屋に入る。ベッドの上に置かれた黒い下着が目に入った。どうやら、彼女は着痩せするタイプのようだ。
Kさんの下着を見て、私は友人の気持ちが分かった。彼が私の衣類を欲しがったのは、今の私と同じ気持ちだったからだろう。私は生まれて初めて、女性の下着を食べたいと思った。
「ちょっと探すのを手伝ってくれないか?」
「ええ、もちろん」
Kさんの部屋には、本棚が三つある。それに加えて、クローゼットの段ボールにも入っているのですごい量だ。
「就職関係の本には、ピンクの付箋をしてあるんだ。それを目印にして探してくれ」
「どうして、そんな本をたくさん持ってるのですか?」
「前の学校で、何年か進路指導を担当していたのさ。今は生活指導をやっているから、全部仕舞ってしまったんだ」
なるほど。先程の面談がずいぶんと様になっていたのは、それを何年もやっていたからか。
私は段ボールを開き、そこから本を数冊抜き取り、付箋がされていないかを注意深く調べた。時間の経過でややピンクが薄くなっていたが、何とか見つけることができた。Kさんに手渡すと、微笑んでくれた。
「公二郎君。ちょっと助けてくれないかな?」
「今度はどのようなことですか?」
「藍子ちゃんと、今よりもっと話をしてくれないか? 君が藍子ちゃんについて感じたことや思ったことを、私に教えてほしいんだ」
これも就職活動の一環なのだろうか。それならば、私に断る理由はない。私としても佐山さんの自立には賛成なのだから。
私が承諾すると、Kさんは喜んでくれた。何かお礼がしたい、と彼女は言った。私は少し考えてから、またどこかへ行きたい、と答えた。彼女は私のことを欲のない奴だ、と笑った。
「佐山さん、私と話をしましょう」
その夜、私はさっそく佐山さんと話そうとした。Kさんからもらった本を読んでいる彼女の隣に座り、顔を覗き込んだ。
「ええと、何を話しますか?」
そういえば何も考えていなかった。まあ、いいだろう。適当に共通の話題を振ってみるか。
「Kさんは、前の学校で進路指導をされていたそうです。佐山さんは、ご存知でしたか?」
「いえ、初耳です」
佐山さんは知らなかったそうだ。さらに聞いてみると、今の学校で生活指導をしていることは教えてもらったそうだが、それ以前のことについては話題にしたことがなかったとのことだ。
「生活指導とは、具体的に何をするのでしょうか?」
「生徒たちが校則や社会規範に則った生活を送るように指導するそうです。制服をちゃんと着ない子や、学習態度の悪い子を注意したりするとか」
私のときは体育科の先生がやっていたような気がする。Kさんや佐山さんたちはどうだったのだろうか。聞いてみよう。
「Kさんと佐山さんは、ミッション系の女子高校だったそうですね。やはり、生活指導の先生は女の人でしたか?」
「はい、年配のシスターさんでした」
シスター、とはいかにもミッション系らしい。そういえば、私の妹も同じくミッション系の女子高校出身だ。Kさんから高校時代の話を聞いた際にもこのことを思い出したが、ひょっとすると同じ系列の学院かも知れない。まあ、私には関係なく、どうでもいいことだが。
「中には乱暴な者もいるでしょうから、大変でしょう」
「それがそうでもないそうです」
「と言うと?」
「新しい高校は、偏差値の高いところだから、生徒はみんな大人しいと言っていました。不登校の生徒はいるそうですけど」
以前、Kさんが公園で電話していた相手だろうか。
「私たちが学生だった頃は、暴力が激しかったですけど、ちゃんと自分の言いたいことを主張する時代でした。今の子供たちは、何を考えているか分からないから、逆に対応が難しいそうです」
「先日の新聞の記事ですね。私も読みました。ですが、Kさんなら上手く対応できると思いますが」
「私もそう思います。昔からとても器用な人でしたから」
私は以前にも佐山さんからKさんのことを聞いた。だが、あれは彼女の若かった頃の話だ。それは彼女という人間のほんの一部でしかない。誰か、彼女についてもっと詳しい人はいないだろうか?
佐山さんに心当たりを尋ねてみる。
「戎崎〈えざき〉さん、だと思います。高校のときは、いつも一緒に行動していましたから。多分、今でも親交があるはずです」
戎崎さん、か。今度、Kさんに素性を尋ねてみよう。
夕方になって外出したKさんから、連絡があった。今日は帰れない、とのことだった。勤務先の学校で急なトラブルが発生したそうだ。
私は佐山さんと二人で夕食を済ませた。食事は二人で作った。彼女は自分を無能だと思っているようだが、少なくとも料理に関してはそうではない。私がそのことを告げると、彼女は嬉しそうな迷惑そうな微妙な表情で頷いた。
食後は二人でラジオを聞いた。特に面白くはなかったが、途中で流れたクラシックのセンスはよかった。佐山さんが若い頃にバイオリンを弾いていたことを知れたのも収穫だった。
「バイオリンなら、地下の保管庫に何器かあります。どうですか?」
「いえ、弾いていたのはすごく前なので……」
弾きたくないものを無理に弾かせることはできない。私としても、強要されて弾くのは好きでないからだ。
無職二人の夜は、こうして更けた。
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗