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霧島卿一朗
霧島卿一朗
novelistID. 36792
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セロ弾きのディレッタント

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 呆れたのだろうか、Kさんは肩を竦めている。私はどうしていいか分からず、何も考えずにメニューの一品を指差した。
「私は、これがいいと思います」
「ふぅん。じゃあ、私はそれにするよ」
 何だか急にそうしなければ落ち着かなくなり、私もKさんと同じものを頼んだ。武田のシュニッツエル、を。

 6

 名前こそ冗談のようだったが、武田のシュニッツエルはそれなりに美味だった。Kさんも満足しているらしく、ナイフとフォークを動かす手がとまらない。
「このあとは、真っ直ぐ家に帰るかい?」
「せっかくですから、この辺りを見て回りたいです」
 私の行動範囲は狭い。この付近を訪れるのは初めてのことだった。
 いつも通りにカードで支払いを済ませ、そのままデパートから出た。車を停めたままでいいのかと尋ねると、Kさんは些細なことだと言って笑い飛ばした。だから、私も気にしないことに決めた。
 外に出てしばらくは少し肌寒かったが、歩いていると自然に身体が温まり、とても心地がよかった。私は気分がよくなり、本当に久しぶりに自動販売機を使おうと思った。だが、私の手元にあるのは数枚のクレジットカードだけだった。これでは買えない。
「すみません、Kさん。小銭を貸していただけないでしょうか?」
「ああ、それは構わない。だけど、今は私もないんだ」
 Kさんは財布を開き、そこに一万円札しかないことを私に伝えた。仕方なく、私はコンビニエンスストアで買った。ほんの数百円のものにカードを使う私のことを、店員さんは何の興味もなさそうに見ていた。
 買い物を終えた私に、Kさんは人の悪い笑みを向けた。
「カードは万能じゃない。これを機に、君も現金を持ってはどうだい?」
「私は現金が好きではないのです。あれは、かさ張りますから」
 昔は私も現金を持ち歩いていた。だが、社会の教科書で大量の紙幣をリヤカーで運ぶ人の写真を見て、カードに切り替えた。そう言えば、あれはドイツの出来事だった。何だろうか、不思議な因縁を感じる。
「まあ、君がそうしたいなら自由にすればいい。さて、そろそろ行こうか。この近くに、綺麗な公園があるんだ」
 Kさんは私に強制することをしなかった。いいことだ。誰かに何かを強制する権利など、誰にもないのだから。
 私たちは歩き、公園に着いた。果たして、そこは綺麗な場所だった。歩道と芝生が分かれていて見栄えがよく、派手すぎない花々や木々がそれに彩りを添えている。そこにいる人たちも穏やかで品のよさそうな人ばかりだ。その多くが家族連れだった。
「少し疲れただろう。あそこにベンチがある」
「はい、座りましょう」
 木製の丈夫そうなベンチに腰を下ろし、ビニール袋から買ったものを取り出す。ペットボトルのコーラ、それから初めて見るお菓子たち。Kさんにも勧めると、彼女はいらないと言った。
「ここに来るのは、ずいぶんと久しぶりのことだ」
 Kさんはどこか遠い目をしている。私は棒状のスナック菓子を齧りながら、それに対して相槌を打った。
「時間の経つのは早いね。高校を卒業したと思ったら、いつの間にか不惑〈ふわく〉だ。ときどき、ぞっとする」
 本当だろうか。私には、Kさんが老いや時間の経過を恐れているようには見えない。彼女は若々しい。いつまでも永久にこのまま存在するのではないかという錯覚にすら囚われるほどだ。
 私はチョコレートの塗られたビスケットを、チョコレートの部分だけ優しく舐めながらKさんの横顔を窺った。美しい。美の基準など人それぞれだろうが、私にとっては彼女こそが至高の美しさだ。気さくで飄々とした捉えどころのなさに加え、どこか怪しく危ない雰囲気。そのすべてが私を魅了してやまない。いつまでもこうして見ていたい。
 しかし、生理的な欲求がそれを邪魔する。
「Kさん。少し、外しても構いませんか?」
「トイレなら、この先を真っ直ぐ進んで左にある。ごゆっくり」
 断じて大ではないぞ、Kさんよ。
 紙袋とビニール袋をKさんに預け、私はお手洗いへと向かった。そして、すぐに迷った。引き返す道も分からない。私はその場で立ち止まり、誰か来ないかと周囲を見渡した。
 運よく、女性が通りかかった。長い黒髪を後頭部で一つに束ね、大きな黒縁の眼鏡をしている。服装は、黒いレディーススーツだった。
 よし、ここは彼女に尋ねてみよう。
「すみません、少しよろ――」
「――あれ、ハム二郎じゃん! 何やってんの、こんなとこで?」
 私の声は、彼女の無駄に大きい声でかき消された。誰だ、この人。どうも私のことを知っているような口ぶりだが。
「あれ? もしかして、私のこと忘れちゃった?」
「いえ、そんなことはありません」
 悲しそうな顔をされたので、つい嘘を言ってしまった。
「本当に? じゃあ、私の名前、言ってみて?」
 落ち着け、私。確かに、私は覚えていると嘘をついた。だが、ここで名前を言うことができれば、それは嘘でなくなる。苗字など、どれも似たり寄ったりだ。小鳥遊〈たかなし〉や入宮〈いるのみや〉のような珍しい苗字はそうそうあるまい。とりあえず、メジャーなところからだ。
「青木〈あおき〉さん」
「ぶっぶー。違いまーす」
「清水〈しみず〉さん」
「違うなぁ」
「鈴木〈すずき〉さん」
「方向性は、いいね」
「田中〈たなか〉さん」
「おっ、おしい! あと、もう一歩踏み込んで!」
 田中からもう一歩踏み込む、か。すると、これに何かを付け加えるのだろうか。ふむ。すると、あれか?
「竹中〈たけなか〉さん」
「あと一息! ワンチャンあるよ!」
 飽きた。それよりも、お手洗いに行きたい。漏れそうだ。
「田中、って苗字に漢字を追加して! 漢字を!」
 しかし、この女性は引き下がらない。すでに私が覚えていないことは分かっているはずだから、きっと楽しんで遊んでいるに違いない。これは、ますます悪質だ。私が漏らしたら、それはこの人のせいだ。
「あの、田中さん」
 面倒臭いので、この人の名前は田中にしておく。
「だから、私は田中じゃ――」
「――お手洗いの場所を知りませんか、田中さん?」
 この名前についての異論は認めない。どうしてもと言うのならば、この膀胱が軽くなったあと聞こうか。
「えっ、トイレ行きたいの? なら、言ってくれればいいのに。水臭いな」
 私がお手洗いを探していることを知ると、田中さんはそこまで私を案内してくれた。おかげで漏らさず済んだ。いい人だ。
「大? 小?」
 出たなり、そんなことを尋ねられた。嫌な人だ。
 しかし、恩のある相手の問いを無視するわけにもいかないので、私は小だったことを告げた。
「それで、私の名前、思い出してくれた?」
「はい」
 今度は嘘ではない。用を足して手を洗っているときに思い出した。彼女は、私の大学時代の恋人だった人だ。学科は、ピアノ科だったはずだ。ハム二郎、というのは彼女が考えた私のあだ名だ。
「田井中真彩〈たいなかまあや〉さん、で合っていますか?」
「ちゃんと覚えてるじゃん。ハム二郎は、そうやってすぐにふざけるんだからさぁ」
 完全に忘れていたことは黙っておこう。世の中には、知らない方が本人のためになることもある。
「真彩さんも、どこかへお出かけですか?」