セロ弾きのディレッタント
なるほど、同じエリアに住んでいる人だったのか。どうりで見覚えがあったわけだ。これでやっとすっきりとした。
「君は、もっと周囲のことを知るべきだよ」
Kさんに、そんな説教をされた。
そして、晩酌が始まる。今夜は、Kさんが用意してくれた日本酒を飲むことになった。佐山さんはさほど飲みそうにない印象だったが、ほんのりと頬が赤くなってから急にペースが上がった。Kさんはいつも通りの蟒蛇〈うわばみ〉だった。私はと言えば、彼女たちのために酌をしたり、音楽を流したりとホスト役に尽くした。
「私、馬鹿です。親の言いなりになって結婚するから、こんなことになったんです。何も考えなかったから、天罰が下ったんです」
「そんなに自分を責めるんじゃない。悪いのは、理不尽な暴力を振るう君の旦那だ。君は悪くない」
どうやら、佐山さんは親の選んだ相手と結婚したようだ。すると、それなりに良家の生まれなのだろうか。
「ずっと離婚したいと思ってました。だけど、私なんて何もできないから、別れたら生活できません。この歳までまともに働いたことのない女なんて、どこも雇ってくれませんから」
そう嘆く佐山さんは、Kさんのことを羨望の眼差しで見つめていた。誰に頼ることなく、自分の力だけで生きている女性の姿は、よほど彼女にとって眩しく羨ましく映っているようだ。働くこととは、それほど高尚な行為なのだろうか。私にはよく分からない。
「藍子ちゃん、悲観するのはよくない。仕事はこの世にたくさんあるんだ。専門知識や経験のいらない仕事なら、十分に働ける。君は勉強が得意だっただろ? きっと、すぐに覚えられるさ」
「……一緒に、探してくれますか?」
「ああ、もちろん。だから、君を匿うのを手伝っているんだ」
果たして、そう上手くいくだろうか。以前、父がこんなことを言っていた。最近は不景気だから、企業は採用数を減らしているそうだ。特に新卒者以外は即戦力としての活躍が求められるので、相応の経験や技術がなければ相手にすらされないとか。
「公二郎君。君、無職の癖に世間を語るんじゃない」
Kさんよ、心を読むのはやめてくれ。
「さっそく、明日から探してみようか」
「はい、よろしくお願いします」
高校の同級生だったとのことだが、Kさんと佐山さんの関係はしっかり者の姉とうだつの上がらない妹に見える。この違いは、社会を知っているかどうの差から生じたものでなく、生来のものに違いない。
それから、Kさんと佐山さんは昔話に花を咲かせてしまった。その話題に混ざれない私は、日本酒が半分ほど注がれたグラスを持ち、二階のベランダに移動した。もう春だが、まだ夜風は冷たい。
私はグラスが空になるまで外にいるつもりだった。だが、星月の美しさが私の足をとめた。星座のことなどさっぱり分からないが、こうして何も考えず眺めているだけでも楽しかった。
どれほどそうしていただろうか、私は急に眠気を覚えた。腕時計を見ると、いつもならすでに寝ている時間だった。心なしか、寒気がする。風邪でもひいたのだろうか。
一階のリビングに戻ると、Kさんが脚を組んでソファーに座っていた。佐山さんは、机に突っ伏して寝ていた。背中にはスーツの上着がかけられている。Kさんがいつも着ているベージュの奴だ。
私の存在に気づいたらしく、Kさんは視線を上げた。
「やあ、戻ってきたね。藍子ちゃんを運んでくれないかな?」
特に断る理由もなかったので、私は佐山さんをおぶり、起こさないようにそっと寝室へと運んだ。彼女の着替えは、同じ女性であるKさんに任せることにした。
私は下の片付けをした。勝手に開けられたワインのボトルもすでに空となっている。よほど飲んだに違いない。
「すまないな、公二郎君。許可を取らずにワインを飲んで、しかもその始末を君にさせてしまったね」
「いえ、構いません」
どうやらKさんは、私が家事一切をできないと思っているようだ。だが、見損なってもらっては困る。洗濯以外ならば、私はすべてを自分でやってきた。洗い物くらいなら、お手の物だ。
「ところで、Kさん。あなたは、星座に詳しいですか?」
「人並みの知識しかないよ。どうして、そんなことを聞くんだい?」
「星が綺麗だったからです」
「ふうん」
Kさんは窓辺に寄り、ガラス越しに夜空を見上げた。
「なるほど、明日は晴れそうだね」
「せっかく見るのですから、知識があった方が楽しいと思います」
「星座か――まあ、早見盤くらいならあるが?」
ふむ。随分と懐かしいものの名前だ。最後に触ったのは、小学生か中学生か高校生の頃以来だ。まったく、記憶に残っていない。
生物の時間に星座が大切になるのだろうか、と私は尋ねた。
「いや、さっぱり使わないと言ってもいいね。それは地学の範疇だから」
「では、お借りしても?」
「ああ、構わない。用意しておくよ」
私はそのことに満足し、浴室へ向かおうとした。だが、気になったことがあったので振り返った。
「授業で使わないものを、どうして持っているのですか?」
「君の弟から、餞別〈せんべつ〉としてもらったのさ。形見分けとも言う」
ふむ。なるほど、憲四郎のやりそうなことだ。いや、剣四郎だったか?
「じゃあ、おやすみ」
「よい夢を」
私は今度こそ満足してKさんと別れ、身体を洗ってから眠った。
4
朝起きると、佐山さんが朝食の用意をしていた。Kさんの姿は見えない。恐らく日課である朝のランニングをしているのだろう。
「おはようございます」
「あ、常盤さん。朝は、ごはんとパンどちらがいいですか?」
「おはようございます」
「お、おはようございます」
一日の始まりは挨拶から、だ。
「私は、ごはんをお願いします」
佐山さんに希望を伝え、朝刊を手に取る。Kさんから勧められたので、私はこうして新聞を購読することした。確かに、これを読むことで世の中の動きが大雑把に理解できる。経済面を見ると、常盤グループのことが書かれていた。国内の企業を合併したそうだ。
「常盤さん、食べませんか?」
「ですが、Kさんが帰っていません」
私たちは決まってこの時間に朝食を食べる。それはこの共同生活が始まってから変わったことがなかった。だから、私はいつまでも帰らないKさんに何かあったのか気になった。道にでも迷ったのだろうか。
それからしばらく待っても、Kさんは帰って来なかった。仕方なく、私と佐山さんは先に朝食を済ませた。
「何をしているのでしょうかね、Kさんは?」
「事故に遭ったりしてないといいんですけど……」
私とは違い、佐山さんの方はそれなりにKさんの身を案じているようだった。この場合、私が冷たいのだろうか。それとも、彼女が単に心配性なだけなのだろうか。
「そろそろ、帰ってきますよ」
「はい……」
沈黙が流れる。Kさんが仕事に行っているときも、私と佐山さんは家に二人だけになるが、その際にはできるだけ近寄らないようにしている。こうして彼女と向かい合って一対一で話すのは初めてだった。
Kさんと違い、佐山さんはあまりコミュニケーション能力の高い方ではない。奥手な女性と上手く話すには、どうすればいいのだろうか?
「佐山さん」
とりあえず、話しかけてみる・
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗