セロ弾きのディレッタント
「おいおい、一本で私の月給が消えてなくなる値段じゃないか。これだから金持ちは怖いよ」
と、言われても困る。私だって望んでこの身分で生まれたわけではないのだ。それをどうのこうの言われるのは、筋違いではないだろうか。
「――別に、妬んでなどいないよ」
Kさんに思っていたことを見抜かれ、私はどんな顔になっただろうか。恐らくかなり間の抜けた表情だったに違いない。にも関わらず、Kさんは私のことを可愛いと言った。これは喜んでいいのだろうか?
呆然とする私に構わず、Kさんはグラスを片手に蝉嫌いの少年の話を始める。私は慌てて耳を傾けた。
「もう、十年以上も前になるかな。学生時代の卒業旅行中に、私はその子と出会ったんだ。ここでは、仮にK君と呼ばせてもらうよ」
何だか、ややこしい。
「そのK君は、祖父母の家の近くに住んでいるKちゃんと親しかったのさ。どっちも年齢不相応に賢くて、それで同世代の子たちと馴染めなかったんだろうね。だから、二人は幼くして相思相愛だった」
ますます、ややこしや。
「K君は虫の好きな子だった。だけど、蝉だけはどうしても嫌いだったんだろうね。羽根を毟ったりして嬲っていたよ」
「苦手という意味の嫌いではなく、嫌悪の方ですか」
「そうだ。彼は蝉を触ることについては抵抗がなかったんだ。むしろ、殺すため、積極的に触っていたね」
虫を殺す少年、か。まともな大人にはなりそうもなさそうだ。
「その少年は、他に何かしていたんですか?」
「人殺しくらいのものさ」
それは悪すぎるだろう。
「Kちゃんは父親から性的虐待を受けていて、K君はその父親を殺したんだ。世間的には事故死ということになっているけどね」
「誰も、その少年を疑わなかったのですか?」
「まあね。十歳そこそこの少年に殺意があるなんて、誰も思わないさ」
殺人を犯す少年、か。私が十歳の頃は、どんな風だっただろうか? 思い出せない。記憶はあれども断片的で、具体的に何があって何をしていて、何を思っていたのかはまったく分からない。弟のために蝉を取ったことも、いい加減であいまいな記憶だ。どっちの弟のためだったかを思い出せない。実に曖昧な思い出だ。
「その子とは、それ以来ですか?」
「ああ、そうだね。Kちゃんとは何度か会ったけど」
Kさんは、さほどKちゃんについて関心を持っていないようだった。人殺し云々は冗談だとしても、彼女なりにK君に対して思うところがあったのは間違いなさそうだ。なるほど、そういう趣味か、Kさんよ。
「なかなか、面白い話でした。他にもありませんか?」
「君、信じていないね」
「まさか」
私はかぶりを振った。もちろん、嘘だ。
「まあ、君がそう思うなら、そうなんだろうぜ」
機嫌を損ねてしまったのか、Kさんはそれから黙り込んでしまった。まるで水を飲むようにブランデーを飲み、ボトルはあっという間に空となった。度数は二十六となっているが、どうもこれは誤植だったようだ。
私はKさんに謝るべきかどうか考えた。だが、六秒ほどでそれをやめてしまった。聞きたいことがあったのだ。
「Kさん、ファックスはどうやって送るんですか?」
「ファックス? どこかへ送りたいのかい?」
「ラジオに送りたいんです」
「なるほど。じゃあ、教えてあげるよ」
Kさんはすぐにファックスの使い方を教えてくれた。それだけでなく、丁寧な字で手順を紙に書いてくれた。どうやら、彼女は機嫌を損ねてなどいなかったようだ。すべては私の考えすぎだった。
「でも、ちょっと驚いたかな。君にラジオを聞く趣味があるなんて」
「趣味ではありません。偶然聞いたラジオが面白そうだったからです」
「公二郎君。趣味との出会いは、その多くが偶然なんだよ」
「ですか」
私は機械のことなどさっぱりと分からなかったが、Kさんの教えを受けてどうにかファックスを送ることができた。相手は、弟の憲四郎だ。いや、拳四郎だったか?
「返信だよ、公二郎君」
私が送ったにも関わらず、返信の内容は殆どKさんに宛てられたものだった。私への言葉は、最後の方に申し訳程度に付け加えられていたにすぎなかった。
「公二郎兄さん、いい加減に働いてください――だってさ?」
「いつも、あいつは同じことを言います」
「君が言わせているんじゃないか」
卵が先か鶏が先か。
「また、何か分からないことがあったら、私に聞いてくれ。ところで、私はお風呂にするつもりだけど、君はどうする?」
「では、私も」
Kさんが酔って溺死しないか心配だったので、私は混浴を決めた。
3
ある日、Kさんが帰って来るなり頼みごとをしてきた。
「私の高校時代の同級生で、夫からDVを受けている人がいるんだけど、しばらく彼女をここで匿えないかな?」
DV? DVDの親戚だろうか。
「ドメスティック・バイオレンスの略だ。配偶者や内縁関係のある相手に対して暴力を振るうことさ。家庭内暴力と思ってくれればいい」
「穏やかではありませんね。そういうことなら、どうぞ」
Kさんが引っ越してきたが、まだ空き部屋はたくさんある。使いたい人がいるなら、使ってもらっても私は一向に構わない。
「連れて来るのは、いつがいいかな?」
「いつでも構いません」
「そうか。じゃあ、さっそく」
Kさんは踵を返して玄関へと向かった。しばらくして戻って来た彼女は、一人の女性を連れていた。どこで見たことのある人だった。その地味で暗そうな顔立ちが、記憶の片隅に残っていた。
「彼が、君のことを助けてくれる常盤公二郎君だ」
Kさんによって私のことが紹介された。とりあえず、会釈をしておく。すると、女性の方も恐る恐るだが返してくれた。
「佐山藍子〈さやまあいこ〉、と申します。お世話になります」
この家に避難するにあたり、さすがに何もしないのは申し訳ないと思ったのか、佐山さんは家事をすると申し出た。さっそく、夕食を作ってもらったが、なかなかの味だった。さすが、主婦。
「常盤さん。洗濯もしますから、何か洗ってほしいものがあったら、どうぞ言ってください」
「私は結構です」
「そんなこと言わないでください。私には他にできることがないんです」
「と、言われても困ります。私は一度来た服は二度と着ないんです」
佐山さんは驚いたような表情でKさんの方を見た。
「本当だよ。公二郎君は、そうやって生活しているんだ」
「……綺麗好きなんですね」
佐山さんは納得してくれたようだ。
「ところで、佐山さん。あなたのことを、私はどこかで見たような気がするのですが、気のせいでしょうか?」
気になっていたことを聞いてみる。すると、佐山さんは困惑したような驚いたような微妙な表情になった。
「公二郎君。君は、本気で言っているのかい?」
何故か、Kさんに呆れられた。やれやれとばかりに肩を竦めている。
もう一度、佐山さんの顔をじっくりと見る。控えめで地味で暗いが、別に悪い印象はない。Kさんには遥かに劣るが、女性としては魅力のある方だろう。だが、やはりどこで会ったのか思い出せなかった。
「はす向かいに住んでいます。ソーラーパネルのある家です」
「そんな家があるとは知りませんでした」
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗