セロ弾きのディレッタント
「別に、興味がありませんので」
何に対して怒りを覚え、それを爆発させるかはその人次第だ。それを聞いたところで何の参考にも肥やしにもならない。そんなことより、今は一杯のコーヒーが飲みたい。
「浅野さん、何か飲みますか?」
「炭酸」
浅野さんがこの家に住むようになってから、冷蔵庫には炭酸飲料が常備されるようになった。私は自分のコーヒーを淹れ、ペットボトルを一本取ってから引き返した。
「どうぞ」
私がペットボトルを差し出すと、浅野さんは無言でそれを受け取り呷った。いい飲みっぷりた。
コーヒーを持ったまま移動するのが億劫になり、私は浅野さんに断ってその場で飲むことにした。ベッドの縁に座り、白い壁紙を見ながら一口啜った。美味しい。
「コーヒーって美味いのかよ」
「私は好きです。ブラックは飲めませんが」
「あのおっさんは飲むけどな」
「和人は、高校の頃からです。あれの何がいいのか私には未だに分かりません」
もしもブラックを飲めることが大人の条件なら、私はずっと子供でも構わない。コーヒーは、ミルクと合わさることで美味しくなるのだ。
「電話、壊れてないよな」
「多分大丈夫でしょう。例え壊れたとしても、さほど値の張るものではありませんから、買い直せばいいだけのことです」
「ならいいけど」
会話はそこで終わってしまった。私はコーヒーを飲み終えるとリビングに戻った。和人が電話機のところでしゃがみ込んでいた。
「壊れましたか?」
「いや、大丈夫なはずだ。力任せにやったから、ケーブルの接触が悪くなっただけだろう」
とは言いながらも、和人は額に汗を滲ませている。
「任せます」
「ああ、俺の不手際だからな」
その場を和人に任せ、私は佐山さんの部屋に向った。ノックをして入ると、Kさんと二人で床に座り何かを眺めていた。
「それは、何でしょうか?」
「卒業アルバムさ。私たちの、ね」
なるほど。するとそこそこの年代ものか。
「公二郎君、失礼なことを考えたね?」
「いや、まさか」
Kさんに図星を指されたのはこれで何度目だろうか。その洞察力には恐れ入るが、正直そろそろ慣れた。
私はKさんたちの正面に座った。反転していると見にくいが、それは確かに卒業アルバムだった。つぶさに見ると、よく見知った顔があった。今よりかなり若いが、この気弱そうな顔立ちは佐山さんだろう。
「これは、佐山さんですね。Kさんはどれでしょうか?」
「あまり見られたくはないんだが、これだ」
Kさんがはにかみながら指差したのは、今と違ってショートカットの彼女だった。それ以外は、あまり今と変わっていないように見える。意志の強そうな眼差しや、どこか不敵な笑みも当時からのようだ。
「恥ずかしいから、あまり見ないでくれ。その制服は、どうしても私には不釣り合いだ」
確かに、卒業アルバムの彼女らが着ている制服はかなり少女趣味なデザインだ。正直に言えば、Kさんにはまったく似合わない。だが、これはこれでそそられるのは私だけだろうか。初めてこれを着て恥ずかしがっていたKさんのことを考えると、とても幸せな気持ちになるのだが。
ふと佐山さんに目をやると、彼女は悩ましげにため息をついた。
「願いが叶うなら、この頃に戻りたいです……」
そんなことを呟く佐山さん。よほど、この頃が幸福だったのだろうか。それとも今が辛いのだろうか。
私は、Kさんが佐山さんの言葉を聞いて苦言でも呈すかと思っていた。だが、彼女の態度はまったくの逆だった。彼女もまた過去に戻りたいと漏らした。
「Kさんでもそんなことをおっしゃるのですね」
「当然さ。私の人生において最も幸福だったのは、この頃で間違いないからね。人は誰でも、人生の頂を懐かしむものさ」
そんなものだろうか。私に戻りたい過去はないので、その感覚はよく分からない。
私たちはしばらく卒業アルバムを鑑賞し、食事をしてそれぞれの部屋に戻った。まだ、寝るには随分と早い時間帯だ。何かしようかと考えていると、扉が叩かれた。誰かと尋ねると、浅野さんだった。
「どうぞ」
浅野さんは、昼と同じ格好をしていた。着替えないのかと聞くと、まだシャワーを浴びていないとのことだった。
「迷惑じゃない?」
と聞かれたので、私は軽く手を振った。
浅野さんは、ベッドの端に座った。私は椅子を引き、彼女の顔が見える位置で腰掛けた。眠いのだろうか、いつもの刺々しい雰囲気があまりない。こうして見ると、やはり彼女は少女なのだと思う。Kさんたちでは、もうこんな顔はできない。
私は何も言わなかった。用があるのは、浅野さんだからだ。彼女が喋らないのならば、ずっとこのままだ。それでも、追い出すことはしないでおこう。彼女が寝てしまうのならば、ここで寝かせてあげよう。私は、リビングのソファーで寝ればいい。
「私が母子家庭なのは、知ってるだろ」
「この前、そう聞きました」
一緒にレストランに行ったときのことだ。
「父親、女作って逃げたんだ。でも、死んだ、って母親は言ってる。弟は、信じてるけど、私はそれが嘘だって知ってる」
「そうですか」
「どう思う?」
「どうも思いません」
浅野さんの父親は、一般的に考えて駄目な人間だろう。そして、残された母子は気の毒な存在だろう。だが、それはあくまで浅野家の問題であって、常盤公二郎が感知すべきことではない。だから、私はどうとも思わないのだ。
私の答えを聞くと、浅野さんは黙ってしまった。怒らせてしまったのかと思ったが、どうも様子がおかしい。彼女は、笑っていた。
「……おまえ、やっぱり変人」
「違います。私は、変ではありません。今の言葉は、取り消してください」
椅子に座ったまま近づき、不満を口にする。心の中でどう思われようと構わない。だが、それを口にされるのは癪に障る。
浅野さんはそれ以上言わなかったが、謝らなかった。代わりに、私のことをこう評してくれた。
「おまえになら、人に言いたくないことも言える。おまえは、どうせ興味がないから、それを言い触らしたりしないだろ」
私はこれに返事をしなかった。
どうやら、浅野さんは聞き役を欲していたようだ。そこでお眼鏡にかなった相手が、この私だったようだ。なるほど。ならば、聞き役に徹しようではないか。
「家族の話がしたいんだけど、聞いてくれる?」
私は黙って頷く。夜長にはちょうどいい。
「私の母親、医者なんだ。で、父親が看護師。結婚したら、仕事辞めてヒモ状態。私が生まれて、弟が生まれたら、それなりに育児してたよ。いつも遊んでくれたし、料理も上手かったし。だけど、急にいなくなった。どうしてかな?」
特に返事をする必要はないと思ったので、黙っていた。すると、浅野さんは強くベッドを叩いた。私は慌てて返事をした。
「他に好きな相手ができたからでしょう」
「そう。私の母親は、旦那を寝取られた。仕事ばっかりしてるから、そうなった。あいつは、救えない馬鹿な女」
浅野さんは、より強い力でベッドを叩く。叩かないでくれないだろうか。
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗