セロ弾きのディレッタント
「おそらく、向こうは弁護士を立てるだろう。上手く藍子ちゃんを悪者に仕立て上げて、少しでも自分の傷が浅く済むように」
相手の動きを予想するKさん。こんなときまで冷静だ。稀に見せる子供っぽい姿も素敵だが、やはりKさんにはこれが似合っている。
「それって卑怯じゃないですか? 自分が暴力とか振るってたくせに藍子さんを悪者にするとか!」
憤りを隠さない田井中。君が怒っても仕方ないだろうに。Kさんを見習って、もう少し冷静になってはどうだろうか。
「向こうがその気なら、こっちも弁護士を立てるだけですよ、佐山さん。どうぞ、ご心配なく。手配はこっちでやります。金は、こいつに払わせましょう」
支払うのは吝かではないが、どうにも和人に強制されると癪に障る。父上と七海にすべて告げ口してやろうか。
佐山さんを慰めて元気づけようとする三人。私は何も言わずに彼らを見ていた。別に高みの見物を決め込もうとしている訳ではない。単に自分が発するべき言葉が何か分からないのだ。下手な発言をして彼らの顰蹙を買いたくはない。
そう考えての沈黙だったのだが、田井中や和人は察してくれず、私にも何か言えと表情で訴えてくる。仕方がないので、なるべく当たり障りのないことを言ってみる。
「今更になって気がつくとは、佐山さんの旦那さんも随分と間抜けな方ですね」
言ってからすぐに、Kさんたちの顔色を窺う。そこに私を責める色はない。ふむ。どうやら、適切な言葉だったようだ。
少しすると、くぐもった声が聞こえてきた。
「そんな間抜けに見つかる私は、もっと間抜けですね……」
「いえ、そんなことは……」
佐山さんは相当に落ち込んでいるようで、何を言ってもこんな風に解釈してしまう。私は慰めるのを諦め、Kさんにその場を任せた。彼女も私では無駄だと思っていたのか、それを引き受けてくれた。
「和人、行きましょう」
「ん? ああ、そうだな……」
私は和人を連れてリビングを出た。そして、廊下で今後のことについて話し合った。
「弁護士は、俺がどうにかする。大学の同期に、民事専門の奴がいるんだ。そいつを頼ってみるさ」
「では、費用は私が」
私たちに出来るのは、この程度のことだ。
翌日になると、佐山さんも落ち着いたようで、冷静に話すことができた。Kさんの説得で覚悟を決めたらしく、離婚に踏み切るようだ。私と和人が弁護士の世話をすると言うと、恐縮しながらもそれを受けてくれた。
昨夜のことを振り返って、田井中はKさんに感心していた。
「いやぁ、Kさんの話術はすごいね。自分を責めるばかりの藍子さんを慰めつつ叱りつつ、上手に前向きにさせるんだからさ。私じゃ、あれは無理だね。あの人、やっぱりただ者じゃないね」
朝から、そんなことばかり言っている。何だか腹が立つので、言いたいことを言わせてもらう。
「つまり、田井中さんはまったく役に立たなかった、ということですか」
「それはそうだけどさ……。ハム二郎、最近私にだけ冷たくない?」
「そんなことはありません。私はいつも通りです」
「嘘。そりゃ、私が悪いこと言ったのは分かってるよ。だけど、そんなに冷たくすることないじゃん。ちゃんと謝るから」
「結構です」
別にまだ怒っている訳ではない。ただ、それと許すかどうかは別の問題なのだ。今は、許す気になれない。
「ふん! ハム二郎のアホ! もう、謝ってあげないんだからね!」
と、田井中は逆切れしてリビングを飛び出した。
和人は、朝から知り合いの弁護士の下に向っている。Kさんは佐山さんを連れて、彼女の実家に行っている。離婚する旨を伝えるためだ。私は金銭面でしか役に立たないので、こうして待機している。
「おまえだけ? さっき、田井中が愚痴ってたけど」
入れ替わりに浅野さんが現れた。求人雑誌を片手に持っている。どうやら、どこかに電話するつもりのようだ。
「電話なら、ご自由にお使いください」
と言って、私は新聞を読み始めた。すると、すぐに浅野さんが昨夜のことを尋ねてきた。
「佐山が離婚するんだろ」
「そうです」
「そっか。……大変だな、あの人も」
何やら思うところがありそうな口ぶりの浅野さん。自分の両親が離婚しているだけあって、彼女も若いながらにその大変さを知っているのだろうか。
それから私は、浅野さんが電話する声を聞きながら、新聞を読み続けた。特に面白そうな記事はなかったが、Kさんの勧めに従って最後まで時間をかけてしっかりと読んだ。
16
和人の大学の同期であるところの弁護士は、それなりに名の知れた都内の事務所に勤めている人だった。短髪に日焼けした肌という好青年だったが、なかなかの毒舌家で常に何かに悪態をついていた。
「機嫌が悪かったですね、あの方」
弁護士事務所の帰り道、和人の運転する車の助手席で私はそう感想を述べた。
「あいつは、いつもあの調子だ。機嫌が悪かったら、あんなものじゃ済まない」
ハンドルを左に回しながら、和人は疲れたように言った。
私はルームミラー越しに、後部座席のKさんと佐山さんを見た。どちらも一言も発さない。事務所を出てから今まで、彼女らは神妙な表情のままだ。
無理もない。離婚が一筋縄ではいかないことが分かった今、そう楽観的に構えることなどできないだろう。
「証拠がなければ、ドメスティック・バイオレンスは認められない、か。離婚というものは、その殆どが女性にとって有利なものだと思っていたが、どうやらそうでもないようだな」
長い赤信号を待つ間、和人は弁護士から言われたことを要約して呟いた。佐山さんは、旦那さんから暴力を受けていたことを証明できなければ、有利な条件で離婚を成立させることができない。このままでは雀の涙ほどの慰謝料しか得られないそうだ。
「それでも慰謝料は貰えるんだから、男はつくづく不利だな」
「和人が離婚しても、七海に慰謝料を払うことになるのでしょうか?」
「それはないだろ。むしろ、俺の方が貧乏だから貰える立場かもな。まあ、慰謝料を貰う前に変死しそうだがな」
笑えない冗談だ。
帰宅すると、浅野さんが受話器を片手に何やら怒鳴っていた。どうして怒っているのかは分からない。聞こえる言葉がどれも汚い罵詈雑言ばかりなので、何らかの推測を行う余地がないのだ。
Kさんは佐山さんと彼女の部屋にいるので、浅野さんを宥めて貰うこともできない。どうするべきか私が迷っていると、車庫から戻った和人が無言で電話線を抜いた。
「うるさい」
浅野さんを睨みつけ、和人はそう言った。彼女は何か言いたそうに口を動かしていたが、やがて受話器を置いて立ち去ってしまった。ふと床を見ると、求人雑誌が落ちていた。
無料の雑誌なので、別に捨てても構わないと思うが、それでも一応持ち主に確認すべく私は浅野さんの部屋に向った。
「浅野さん、少しよろしいでしょうか」
「……勝手に入んな」
「この雑誌は、捨てても構わないでしょうか?」
「……返せ」
捨てなくてよかった。私は雑誌を浅野さんに手渡し、そのままリビングに戻ろうとした。すると、彼女に呼び止められた。
「何も聞かないのかよ」
「何をお聞きすればよろしいのでしょうか?」
「あたしが電話してたことだよ」
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗