セロ弾きのディレッタント
「どこへ帰るつもりだい? あの家に帰って、母親と終着点のない喧嘩続けたいなら、それは君の自由だが」
浅野さんの動きがとまった。Kさんを睨んで舌打ちをして、荒々しい動作で再び座った。
Kさんはひとつ咳払いをして、私たちに話し始める。
「清華ちゃんは、私の勤務している高校の元生徒だ。少し前に、退学処分となった。理由は、著しい学習意欲の欠如。彼女は不登校で、去年から学校に来ていなかった。彼女の母は教育に熱心な人で、これを許さなかった。顔を合わせれば口論となる。だから私が間に入って、一時的に彼女を預かることになった。ということで、公二郎君に頼みたい。清華ちゃんに部屋を貸してやってほしい」
「分かりました」
私が承諾すると、浅野さんに怒鳴られた。
「勝手に進めんな! おまえも受けるな!」
「清華ちゃん。目上の相手に、その口調はよくないぞ。私はともかく、公二郎君には相応の態度で接しろ」
「知るかよ、こんな奴。大体、女みたいな顔しやがってキモいんだよ。何が、こんばんは、だ。他に言葉知らねぇのか。つーか、こいつと先生ってどんな関係なわけ? こいつ、ヒモ? しかも、他の奴らも変な奴らばっかじゃん。おばさんにおっさんに、おばさんとか、ここは宗教か何かの団体かよ」
そろそろ黙れ、浅野さんよ。別におまえに興味はないが、我慢には限度がある。佐山さんはともかく、田井中と和人は今の暴言で臨戦態勢に入ったぞ。
「つーか、おまえが一番キモいんだよ! 何が、公二郎だ! 死ね! このオカ――」
最後まで言い切る直前、田井中と和人がすさまじい勢いで浅野さんの口を塞いだ。オカ、に続く言葉は何だろうか。
「それは言っちゃならん! 言っちゃならんぞ!」
「禁句だよ! それはハム二郎をぶち切れさせる禁句だよ!」
和人と田井中は、浅野さんを抑えながらも見ているのは私の方だ。そんなに怯えてどうしたのだろうか。別に私は怒っても怖くないぞ。
私はKさんへ視線を送った。彼女は肩を竦めた。
「許してやってくれ。こうやって強がらないと、大人が怖いんだ」
そう私に耳打ちしてくれた。いい匂いがした。
浅野さんは喚いたが、こうして新しい居候が加わった。部屋はKさんの隣になった。これからどうするかは、気持ちの整理が終わってから考えるそうだ。
「とりあえず、これを」
と言って、Kさんは私に封筒を差し出した。中身は小切手だった。浅野さんの生活費を肩代わりするつもりのようだ。
「優しいのですね」
「優しいよ。だから、戎崎聖美〈えざききよみ〉は私を誤解している」
戎崎さんの名前が出たのは、偶然だろう。そう思いたい。
「Kさんも飲みますか?」
「飲むよ。だけど、君は控えた方がいい。そう言われただろう」
私は大人しくグラスを下げた。ついでにその場から逃げた。部屋に入ろうとしたところで、Kさんに腕を掴まれ耳を甘噛みされた。
「私は、ね。君の心が読めるんだ」
冗談でも真剣でもない口調で、Kさんはそう言った。私が興奮で眠れなかったのは言うまでもない。
15
それにしてもこの家も賑やかになったものだ、と私はしみじみ思った。そんなことを和人に言うと、彼はあからさまに私を笑った。
「おまえは、騒がしいのや賑やかなのが苦手じゃなかったのか。俺の目には、随分と楽しんでいるように見えるぞ」
「まさか。私にとってはどちらでもいいことです」
「どちらでも、か。普通の男なら、あれだけ顔のいい女たちと住めることを喜ぶぜ」
Kさんたちが全員美女であることは認める。だが、それだけだ。別に彼女たちとどうにかなれる訳ではないのだから、顔がよかろうと悪かろうと実質的な損得はないのだ。
「だけど、おまえはKさんに気があるんじゃなかったのか」
「どうしてそうだと?」
「おまえの態度を見ていれば分かる。真彩さんもそう思っている。多分、佐山さんもそうなんじゃないか」
そうなのだろうか。気になるので、聞いてみることにする。椅子から立ち上がり、ベランダから廊下に戻る。和人から水割りを頼まれたので小さく手を上げた。一階に降りると、佐山さんはいなかった。今日は仕事だろうか。仕方ないので、暇そうにラジオを聞いている浅野さんに尋ねてみる。
「浅野さん。あなたには、私がKさんを好きそうに見えますか?」
「……意味分かんないんだけど」
睨まれた。そして、何も答えてくれなかった。私は諦めて水割りを作り、牛乳パックを持ってベランダに戻った。
「どうだった?」
「浅野さんに聞いたのですが、意味が分からないと言われました」
「中卒の学力じゃそんなもんだろ。あいつ、ああやって威嚇することがコミュニケーションだと思っているのさ。猿山のモンキーと変わらんな」
浅野さんが居候することになってまだ日が浅いが、和人は彼女のことを嫌っているようだ。その証拠に、何かあれば彼女のことを批判している。昨日は、意志薄弱だと言っていた。
嫌いな相手のことを話すのが嫌なのか、和人は早々に話題を変える。
「おまえがKさんを好きだという話だが」
「それは終わりにしましょう」
「そうはいかない。おまえは常盤家の長男だ。そのおまえが誰を好きであるかは、一族全体の問題とも言える。当然だが、婿養子である俺もその当事者に含まれる」
家のことを持ち出すのは勘弁してほしい。確かに私は常盤家の長男として不自由なく大人になれた。だが、私は会社経営に携わる気もなければ、父上の跡を継ぐつもりもないのだ。当然の権利として相続した財産を浪費させながら誰にも迷惑をかけることなく生きているのだから、いい加減に一族のしがらみからは解放されたいものだ。自己中心的だろうが、そこは譲りたくない。
「だけど、それだけじゃないぞ。俺はおまえと親しいんだから、おまえが誰を好きなのか気になるんだ」
「そちらが本音なら嬉しいのですが」
「じゃあ、そっちが本音だ」
正午まで、そんないい加減な会話を続けた。私は三人で何か食べに行こうと誘った。和人は断った。浅野さんと外出するのが嫌だそうだ。仕方がないので、二人で行くことにした。
「おまえはいいな。若い女と一緒でも援助交際だと思われない」
和人はそんなことを言って笑った。私はちっとも面白くないのだが。
私が昼食に誘うと、浅野さんは嫌そうな顔をした。にも係わらず、誘いには乗ってきた。よく分からない人だ。
ハイヤーでも呼ぼうと思ったが、Kさんからあまり贅沢はさせないでほしいと言われていたので歩いた。浅野さんは文句を言っていたが、駅に着くと大人しくなった。列車には乗らず、駅舎内にあるレストランで済ませることにした。
「おまえ、働いてないんだろ」
席に着くなり、そんなことを言われた。
「働いていません」
「それでどうやって生きてんだよ。やっぱ、親が金持ってんの?」
「亡くなった祖父から相続したものをすべて換金して、その一部と利子で生活しています」
別に知られて困ることでもないので、私は包み隠さず教えた。すると、浅野さんに鼻で笑われた。意図せず笑いを取ってしまい、私は自分のコメディーセンスについて考えさせられた。
「金って本気〈マジ〉で最強だよね。それさえあれば、どんなカスでもよろしくやれるんだからさ」
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗