セロ弾きのディレッタント
戎崎さんの最後の言葉は、どこか言い訳に聞こえた。私は何と答えればいいか分からなかったが、ひょっとすると返事など求めていないのかも知れないと思い、何も言わなかった。
帰ろうとすると、先ほどの女医さんが待っていた。これから時間は大丈夫かと尋ねられたので暇だと答えると、かなり強引に少し遅めの昼食に同席させられた。
「ここ、パスタの美味しい店なんです。常盤さんは、お好きですか?」
別にどちらでもないので、そこそこです、とだけ答えた。すると女医さんは聞いてもいないのに、これがおすすめだとか一人で盛り上がり始めた。注文を終えても喋っているので、私は適当に相槌を打ちながら奥の席で座っているカップルを眺めた。
「ところで、戎崎先生のご友人と知り合いだそうですが、どちらで知り合ったのでしょうか? 差し支えなければ教えてください」
「部屋を貸しているのです。その人に」
「常盤さんは、賃貸物件の経営をされているのですね。すると、実業家さんということでしょうか?」
「商売ではありません。住んでいる家の、余っている部屋を貸しているだけのことです」
「では、どんなお仕事をされているのですか? 差し支えなければ教えてください」
「仕事はしておりません。個人的な財産がありますので」
これを言うと、多くの人は私のことを穀潰しのように見る。だが、女医さんの反応は違った。彼女は感心したように頷き、それから微笑みを浮かべた。
「憧れます。私も医者なんて辞めて、そんな生活がしたいです」
私は何も答えず、相槌も打たなかった。今の言葉に反応する必要がそもそもないように思えたからだ。
「戎崎先生のご友人の他に、居候している方は?」
「三人います」
「差し支えなければ、その人たちのことについても教えてください」
先ほどからこの女は、差し支えなければ、と言い添えることで何でも聞き出せると勘違いしていないだろうか。いくら私でも、田井中たちの個人情報を勝手に漏らすほど馬鹿ではない。だから、丁重に断った。
私の分のパスタが運ばれてきた。すぐに女医の分も運ばれた。私は彼女がフォークを持つのを待たずに食べた。大へん美味しかった。いつかKさんと二人で行ったレストランよりも上の味だった。
料金は、私はまとめてカードで払った。女医は何か言ったが、この人に借りを作るのが嫌だったので無視して済ませた。
「駅まで送ります」
「結構です」
「御馳走になったのですから、このくらいはさせてください」
道理は女医にあった。私は後部差席に乗り込もうとしたが、彼女は鍵を閉じてそれをさせなかった。
「隣へどうぞ」
抵抗するのも面倒だったので、私は助手席に座った。駅までは三十分くらいだったが、その間も女医は途絶えることなく私に話題を振り続けた。私はもう相槌どころか耳すら貸さなかった。それでも彼女は喋り続ける。聞こうとせずとも断片的に脳内に入り込む単語は、どれも私の女性関係にまつわることばかりだった。
「ありがとうございました」
降りる際、礼儀としてそう言った。女医は、電話待ってますから、と嬉しそうに呟いた。
私は真っ直ぐ家に帰らず、近くを目的もなく歩いた。途中で何度か若い人から誘われた。私が男だと言うと多くの人は謝ってくれたが、一人だけそれでも構わないと言った。その人は、中学生だった。私と同じく女顔だったが、彼は女装を趣味としていた。どうせ暇だったので、しばらく遊ぶことになった。
私たちは喫茶店で話すことにした。私は聞き役に徹し、彼は話し手として人生について語った。他に人は少なかった。
「私は、別に性同一性障害とかじゃないんです。普通に女の人が好きですし、今も彼女がいます。でも、こうして女の子の恰好をすると、落ち着くって言うか、とってもありのままって気がするんです。お兄さんは、そんな経験ありませんか」
小さく首を横に振る。女装など考えただけで吐き気がする。
「私は、こうやってメイクとかしないと女になれませんけど、お兄さんは何もしなくても女に見えますよね。お兄さんって何歳ですか?」
私は隠さず誤魔化さず答えた。
「……私は、十年後二十年後も女装が似合うでしょうか」
「先のことは、誰にも分かりません」
口ではそう言いながら、私は難しいだろうと思っていた。中学生くらいなら女っぽさも残るだろう。だが、それは単に成長が遅れているというだけのことだ。高校生になれば背が伸びて体重も増えて、鬚も生えて声も野太くなる。悪い意味で奇跡的にこの外見をキープしてしまった私ですらも、声はこの通りだ。
「ですが、性別の壁は残酷です」
「そうですね……」
もう話すことはないと思った。私は立ち上がり、会計を済ませた。彼には、気の済むまでいるといいと言った。彼は返事をしなかったが、頷いてくれた。私は列車に乗って帰宅した。
自宅に戻ると、女子高生がその前をうろついていた。落ち着きがない。髪を金色に染めて着崩しているが、その動作のせいで嫌な雰囲気はまったくない。何か用なのだろうか。
「こんばんは」
私が呼びかけると、彼女は肩を震わせた。そして、振り返ると私を睨みつけて叫んだ。
「いきなり、声かけんな!」
「こんばんは」
「はぁ? おどかすなって言ってんだよ!」
「こんばんは」
「うっさい! あたしの話、聞いてんのかよ!」
「こんばんは」
人間関係の基本は、まず挨拶から。そこは譲れん。
それからしばらく、私たちは罵倒と挨拶で会話を続けた。ふむ。そろそろ飽きたな。
「会話のドッジボールをしているところすまないが、君たちは馬鹿か?」
そんなことを言われた。玄関にKさんが立っていた。腕組みをして、柱に寄りかかっている。二階から、田井中と佐山さんが覗いていた。和人の姿は見えなかった。眠ったのだろうか。
「こいつ、何なんだよ! ずっと、こんばんは、とか頭おかしいんじゃねぇのか! 馬鹿だろ!」
「その馬鹿と会話している君も傍から見れば、十分に馬鹿だ」
朱に交われば赤くなる、か。二階の田井中と佐山さんも頷いている。とりあえず、私も頷いておく。
「こんな時間だと近所迷惑だ。早く入れ」
Kさんに言われたので、私は入った。抵抗していたが、あの女子高生も渋々入った。この人は何者なのだろうか。
リビングに入ると、和人はワインを飲んでいた。グラスは四人分ある。どうやら、晩酌中だったようだ。私はうがいと手洗いを済ませてから、ボトルの残りをすべてグラスに注いで飲んだ。
「清華〈せいか〉ちゃんも座るといい」
女子高生の名前は、浅野清華〈あさのせいか〉というそうだ。話を聞くと、私と田井中が再会した日にKさんが電話で話していた相手だそうだ。そう言われると、そんな会話を聞いたような気がしないでもない気がするでもない。
浅野さんは同じ席に着いたが、どうも居心地が悪そうだった。
「得体の知れない連中に囲まれて驚いているんだろう。だが、心配は無用だ。この人たちは、悪い人じゃない」
「そんなこと、信じられるわけないじゃん」
「そうだな。じゃあ、君が直接触れ合って判断するといい」
「誰がこんな奴らと。あたしは帰るから」
立ち上がろうとする浅野さん。そんな彼女に、Kさんは不敵な笑みを投げかける。
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗