セロ弾きのディレッタント
「うーん? 藍子さんと和人さんも、そう思ってるんだど?」
「皆さん、暑さにやられているんです」
きっとそうなのだ。でなければ、私がKさんを好きだなどと勘違いするはずがないのだ。
「じゃあ、ハム二郎にとって、Kさんって何なの?」
リモコンを探す私の背中に、真彩さんの真面目な問いがぶつけられる。思わず、探す手がとまってしまった。
私にとって、Kさんとはどんな存在なのだろうか。改めて考えてみると、どうやら私の知っている言葉では表現が難しい。ならば、メタファーでもと思ったが、それもできなかった。私に国語的センスが欠けているだけでなく、私の中のKさんという存在が実は曖昧模糊なものだということが一番の原因のようだった。
そんな私の苦悩を見抜いたのだろうか、真彩さんはある提案をしてくれた。
「ハム二郎は、もっとKさんのことを知るべきだと思うよ。好きなら」
「好き云々は関係ありませんが、知ることは大切だと思います」
Kさんとも浅からぬ関係だ。ここはもっと彼女を深く知るのも一興かも知れない。好きかどうかは、これに関係していないが。
それにしても。
「どうして、私がKさんを好きだと思ったのですか?」
「絶対そうだと言い出しだのは、私。藍子さんと和人さんは、そんな気がするって言っただけなんだ」
「その根拠は?」
「女の勘」
そう言うと聞こえはいいが、要するにただの言いがかりではないか。名誉棄損も甚だしい。
「あ、その顔は、女の勘を舐めくさってる顔だ。甘いね。これだから男は。女の勘を見くびってもらっちゃ困るよ。これが、意外と当たるんだって」
「そうですか」
どうせ、嘘だろう。
「うわぁ、適当な返事……。じゃあ、言わせてもらいますけどね、私がハム二郎の性感帯がどこか見抜いたのも、女の勘なんだよ」
「昼間から、何を言っているんですか……」
「ハム二郎ったら、女の子扱いされるの嫌がるのに、中指でお尻の穴、ぐりぐりされると可愛い声で喘ぐんだよねぇ?」
前言撤回だ。こいつには、人の嫌がることに関しての配慮はない。昔はあったような気がしなくもないこともないが、今はないのだ。三次試験で落ちてしまえばいいのに。
機嫌を損ねた私は、エアコンを切った。そして、リモコンを持ったまま廊下に出た。私の部屋にはエアコンがあるので、別にリビングにいる必要はないのだ。田井中は、エアコンどころか扇風機もない部屋で茹だっていればいいのだ。
「ああ! ごめん! ごめんって! ほら、謝るから! 今なら、何だってします! 何なら、弾き語りでも――」
断末魔の叫びを上げる田井中を無視し、私は自分の部屋に戻った。エアコンを点け、少し寒いくらいの温度にしてから毛布をかぶった。そして、佐山さんが帰宅するまでに、本を一冊読み終えた。大へんつまらなかった。
夕方になって、速達が届いた。田井中の試験の結果だった。昼の失言があったので破り捨てようかと思ったが、さすがにそれは人としてどうかと思い、妥協案として先に結果を見た。通過していた。
その夜は、ちょっとしたお祝いになった。
「いやぁ、まだ内定じゃないんですけどねぇ?」
すっかりとできあがった田井中。さっきから私にばかり絡んでくるのだが、これがこの上なく邪魔くさい。病気か何かにならないだろうか、こいつ。
「私の乏しい経験から言わせてもらうと、最終選考まで進んだ時点で、すでに内定は得たに等しい。最終選考とは、いわば入社意思の確認をするようなものだ。よほど採用側が意地悪でないかぎり、平気さ」
と、Kさんが早くも太鼓判を押した。
さらに。
「うちの人事部も、そんなこと言ってたな。だから、うちの会社だと最終面接は雑談みたいなものだそうだ」
和人までもそんなことを言い始めた。
「おめでとうございます、真彩さん。私も頑張らないと……」
佐山さんも、だった。
何だか私は、無性に田井中が羨ましくなってしまった。
13
その日、私は列車に揺られて山梨まで憲四郎に会いに行った。私以外は全員仕事なので、今日は久しぶりに家が空になった。出かける私に田井中が、お土産がどうとかいっていたが、無視してやった。
憲四郎の病院は、辺鄙なところにある。人口が五桁にも届かない村の山の麓に建っている。最寄りの駅からは、バスを利用しても三十分以上もかかった。
受付で弟のことを尋ねると、この時間帯には南病連にいるとのことだった。そこまで足を運び、さらに歩いていた看護師さんに聞くと、今は休憩中だから屋上に違いないと言われた。
屋上に行くと、車椅子の女性がいた。苛立っているようで、しきりに貧乏ゆすりをしている。そこまで足が動くなら、立って歩けばいいだろうに。
そんなことを考えて見ていると、目が合った。
「何だ、おまえ。じろじろ見んな」
口の悪い人だ。面倒くさそうなので、早々に退散する。
「こんなところで、何をやっているんですか、公二郎兄さん……」
踵を返すと、憲四郎がいた。当然だが、看護師の服を着ている。表情を見る限り、私がここにいることに驚いているわけではなさそうだ。では、この微妙な表情は何だろうか。
「おまえが、こいつの兄貴かよ! おいおい、どっからどう見ても、女じゃねーか!」
後ろで、車椅子の奴が騒いでいる。車輪の動く音が聞こえた。こっちに来ているようだ。
「誰ですか、あの失礼な女性は?」
「スタッフの石動〈いするぎ〉さんです」
何をしているかは聞かない。あんな失礼な女の情報は、名前だけで十分すぎる。そんなことに記憶の要領を割くなど無駄でしかない。
「おまえら、本当に血が繋がってんのかよ? 異母とかじゃねぇのか?」
私は答えない。その代わりに憲四郎へ視線を送る。すると頷いた。どうやら、私の言いたいことを汲み取ってくれたようだ。
「父上は、妾や愛人の類を無駄だと考えていましたから、私たちは正真正銘の兄弟です」
「すると、こいつは突然変異種か。女にしか見えない男とか、変態からするとたまらねぇんだろうな」
「あまり、顔のことは言ってやらないでください。兄は、昔から女顔がコンプレックスなんですから」
「ああ、そうかい。おまえ、悪かったな。ごめん」
許すつもりはないが、ごめんという言い方が似合わなかったので、私は少しだけこの人を可愛らしく思った。まあ、許さないのだが。
憲四郎は、石動と昼食を食べるためにここに来たそうだ。手には、二人分の弁当がある。どちらも手作りだ。腕時計を見ると、すでにそんな時間帯だった。私も売店で何か買うとするか。
「ここではカードは使えませんから、これを」
そう言って、憲四郎は私に紙幣をくれた。ありがとう、弟よ。
売店から戻る途中、張り紙が目に入った。内容は人探しだった。この病院からいなくなった人のようだ。年齢は私よりも少し上だったが、写真の人物は痩身で儚げだった。
屋上に戻ると、憲四郎が石動に困らされていた。
「いいから、口を開けろよ」
「いや、今日は兄さんがいますから……」
「中学生じゃないんだから、こんなことでがたがた言わねぇだろ。さっさと、食えって」
これが、お口あーん、という行為か。なるほど、こいつらそんな関係か。弟がわざわざ二人分の弁当を用意するはずだ。
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗