セロ弾きのディレッタント
「結婚したあと、あいつと初めて寝たんだ。つまり、セックスだ」
別に解説されずとも分かる。いくら私でも、経験くらいはあるのだ。
「あいつを脱がすだろ? こうやってさ」
私の両肩に触ろうとする和人。私はベッドの端に逃げた。
「全部脱がすと、裸になるだろ? 部屋が暗いから、最初はよく見えないんだ。でも、目が慣れると見えたんだ」
美女の裸体を拝めるのだから、男としてこれに勝る喜びはあるまい。にも関わらず、和人は冴えない顔をしていた。
「女神かと思うほど、七海の裸は綺麗だった。俺は色々な女を抱いたけど、あそこまで興奮したのは初めてだった。何もされなくても射精しそうだったくらいだ」
昔、真彩さんに早漏と罵られたことがある。あのときは、挿れて数分での射精だった。それを考えると、七海の身体が男にとってどれほど煽情的であるかがよく分かった。
「俺は、朝まで勃起が収まらないと思った。一度や二度の射精じゃ済まないとも思っていた。だけど――」
和人は私の顔を見据えた。爽やかな笑顔を浮かべて。
「――この女、ちんこないんだな、って思ったら萎えちまった」
今日は、夜空が美しいに違いない。さて、天体観測でもするか。
私は立ち上がった。そう言えば、Kさんに星座早見盤を借りる約束をしていた。夏の星座は美しいそうだ。彼女と二人で見ることができればどれほどいいだろうか。
逃走しようとする私の手を、和人は電光石火の如く捕まえた。
「公二郎、待ってくれ!」
「待ちません! 汚い手で触らないでください!」
「触らせてくれ! 俺はおまえに触りたいんだ! 顔はおまえそっくりでも、七海はおまえじゃなかったんだ! 俺は、おまえじゃなきゃ勃起できなくなっちまったんだよ!」
もはや返す言葉がない。開いた口が塞がらないとはこのことだ。真面目にふざける人間を、私は久しぶりに目の当たりにした。
「公二郎、俺はどうすればいいんだ? 俺は確かに七海が好きなのに、あいつで欲情できないんだ。何とかしてくれよ」
「私に言われても困ります。いったい何ができると……」
「そこだよな、問題は……」
どうやったら勃起できるかを考える二人の男。傍からすれば、これほどに間抜けな会話はない。Kさんにだけは絶対聞かれたくないな。
「とりあえず――」
「――とりあえず?」
私は時計を指差した。
「……今日は、寝ましょう。詳しいことは、明日以降に」
「……そうだな」
和人には、今夜だけリビングのソファーで寝てもらった。流れ的に彼もここに住むことになりそうなので、明日には部屋を用意しなければならない。まさか、勃起させる方法を考えるため、と言うわけにもいかないので、何かしら理由をこじつける必要がありそうだ。痴話喧嘩をして気まずいとでも言っておくとするか。
それにしても、七海が不憫でならない。責任の一端が私にないとも言えなくもないこともないので、何とかしてやりたいと思った。少しくらいは妹を思いやっても天罰は下るまい。
12
春が終わり、いよいよ夏となった今日この頃。真彩さんが、暑い暑いと言うので、エアコンのフィルターを掃除した。私が作業をしている間、彼女はずっと見守ってくれていた。
「あのハム二郎が、エアコンを掃除するなんて……!」
「失礼ですね。私がちゃんと家事をこなしていることは、真彩さんもご存知ではありませんか」
「いやぁ、女の子としては、高いところにあるものを簡単にどうにかできちゃう男の子の姿に、キュンキュンとしちゃうわけなんですよ」
などと、二十九歳の女子が言っている。
さっそく、エアコンを点けてみる。二年前に買ったものだが、性能はいささかも衰えていないようで、すぐに涼しい風を送り始めた。
「おお、極楽ですな……」
いい具合に部屋中が冷えてきたとことで、真彩さんはフローリングの床に寝転がった。裸足に半袖半ズボンの服装で、さらにお腹を丸出しにしている。はしたないことこの上ない。
と、心では思いながら、ついつい私も同じことをしてしまう。
「確かに、これは気持ちがいい……」
少しだけのつもりが、立ち上がるのが億劫になるほど快適だった。身体に悪いのは分かっているが、どうしてもやめられなかった。
「いやぁ、Kさんたちが働いてるのに、こんなことしてたら天罰が下りそうで怖いねぇ」
「では、外に出しましょうか?」
「ハム二郎。人は、ね。それが過ちだったとしても、欲求には逆らえない生き物なんだよ」
深いようで、まったく深くない。むしろ、浅い。
「それに、どうせ、Kさんたちもクーラーの効いたところで仕事してるに決まってるじゃん」
「そんなものでしょうか?」
「そんなものです。私がアルバイトしてるコンビニなんて、夏はクーラー使いまくりだよ」
暑い中の仕事は大変そうだが、この涼しい環境でなら、別にそうでもなさそうだ。働くという行為は、案外そこまで厳しいものでもないのかも知れいない。
喉が渇いた、と言って、真彩さんは冷蔵庫に向った。だが、立ち上がってはいない。ごろごろと転がり、芋虫が這うような動作で移動したのだった。少し高いところにあったグラスは、足を使って器用に取った。彼女が手にしていたのは、二リットルのコーラだった。
「ハム二郎も飲む? 美少女の足を、間接的に舐めれるよ?」
「昔さんざん舐めたので、もう結構です」
「ひどい! 私の身体に飽きたのね!」
などとふざけながら、グラスにコーラを並々と注いでくれる。その姿勢の悪さで、よく零さないものだと感心する。
上半身を起こして、いっきにグラスを傾ける。
「さあ、もっと飲まんしゃい、お嬢ちゃん」
「自分は男です」
「こんなに可愛い子が、女の子なわけがない!」
性別をネタにされるのは嫌いだが、まあ、真彩さんなら許そう。この人は、相手が本気で嫌がる素振りを見せたら、すぐに謝ることのできる人だから。
「ところで、真彩さん。試験の結果が、今日届くと聞きましたが?」
以前に受験した、音響機械を作っている会社のことだ。一次試験、二次試験と通過したそうだが、三次試験の結果がまだ届いていなかったのだ。
「そうらしい」
「きっと、大丈夫ですよ」
「どうして、そう思うの?」
そう言われると、返事に困る。根拠らしい根拠はないのだ。
「Kさんが、大丈夫だとおっしゃっていたからです」
「あー、なるへそ。Kさんが、ね」
また、例の薄ら笑いだ。いい加減に、それが何を意味しているのか教えてほしいものだ。
「ねえ、間違ってたらごめんだけど――ハム二郎って、Kさんのこと好きだよね?」
何を言いの出すのだろうか、この人は。私とKさんは家主と居候の関係であって、強いて言っても異性の友人くらいに留まる。年齢も一回りくらい離れているし、社会的な立場も大きくことなっていて、普通なら関わり合いにならなかった者同士だ。そこに恋愛感情が生まれるなど、どうやったらそんな考えが生まれるのだろうか。どうやら、真彩さんは暑さでおかしくなったのかも知れない。そうだ、エアコンの温度を下げよう。頭が冷えれば、彼女も考えを改めるに違いない。
私は一言だけ、違います、と答えてから立ち上がった。リモコン。リモコンはどこだ?
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗