セロ弾きのディレッタント
何だ、その薄ら笑いは。
私は食器をキッチンに運びながらも、真彩さんから視線を離さなかった。彼女は明らかに何かを企んでいる。それはきっと私にとって都合の悪いことに違いない。彼女が私に嫌がらせをするとき、こんな笑みを浮かべていたことがあったような気がしないでもない。
「珈琲でも?」
「もらおうかな」
だから、何だ、その薄ら笑いは。いい歳の女が、鼻の穴を膨らませるな。微妙に鼻毛が見えるではないか。
二人分の珈琲を持ってソファーに座る。そして、恐る恐る隣の真彩さんに差し出す。薄ら笑いは消えていた。だが、油断はできない。女という生き物はいつも仮面〈ペルソナ〉を被っている。Kさんが以前にそんなことを言っていたからだ。
しかし、真彩さんは何のアクションも起こさなかった。それどころか、何も切り出そうとしないのだ。静かに珈琲を飲み、新聞を隅から隅まで読んでいるだけだった。
「新聞を番組表からじゃなくて一面から読むようになると、大人になった気がするよねー」
胸を張って眼鏡を持ち上げる真彩さん。こうして見ると、仕事のできる女に見える。無職だが。
「やっぱ、就活するなら、ちゃんと世の中のこと知らないと駄目なんだよ。面接とかで時事的なこと聞かれて答えられないと、こいつ顔だけの女だな、とか思われちゃうわけですよ、ハム二郎さん」
「Kさんも、新聞は読むべきものだとおっしゃっていました」
「へぇ、そうなんだぁ?」
だから、その含み笑いはやめていただきたい。
「つまり、Kさんの勧めでハム二郎は新聞を読むようになったってこと?」
「ええ、そうです。実際、これは優れたツールです」
「ハム二郎は、Kさんから影響受けまくってるねぇ。私と恋人やってたときは、全然私色に染まってくれなかったのにさ」
「まさか、拗ねていますか?」
真彩さんは、冗談きつい、と言ってかぶりを振った。
それからしばらくして、Kさんが帰ってきた。彼女がシャワーを浴びている間、私は朝食を準備した。しながら考えた。汗を吸ったジャージや下着はどうするのだろうか。洗濯するなら、是非ともその前に一度匂いを嗅いでみたいものだ。
椅子に座るKさんの前に、丁寧に朝食を並べた。
「すまないね」
「いえ、簡単なものですから、どうぞお気になさらず」
箸を勧めるKさんを正面から見つめる。実に美しい歯並びだ。時折見せる唇を舐める動作がたまらない。どうして、ただ食事をしているだけでこれほどまでに魅力的なのだろうか?
ぼんやりと眺めていると、Kさんと目が合った。
「すみません」
思わず謝ってしまった。
「いや、構わないよ。こんな顔でいいなら、いくらでも見てくれ」
Kさんとしては冗談で済ませるつもりだったのかも知れない。だが、私としては済ませるつもりはなかった。見てもいいのなら、じっくりといつまでも眺めさせてもらうだけだ。
「そこまで直視されると、さすがに恥ずかしいな……」
味噌汁を啜りながら視線を逸らすKさん。これは、何と言えばいいのだろうか? とてもそそられるのだが……。
「ごちそうさま。とても美味しかったよ」
食べ終えたあと、Kさんは柔らかい笑顔を見せてくれた。誰かの笑顔のために美味しいものを作りたい、か。なるほど。料理人をやっている人の気持ちが少しだけ分かった気がする。
それから私たちは、昼まで雑談をして過ごした。その間も、Kさんは何度か佐山さんの様子を見に行っていた。
「藍子さんは、大丈夫そうですか?」
「頭痛がひどいそうだ。けれど、心配することはない。二日酔いで死ぬことはないんだから」
Kさんと真彩さんがそんなことを話している側らで、私は目的もなくラジオのチャンネルを触っていた。
「神奈川第四大学の一年生数名が、急性アルコール中毒で緊急搬送され、今朝未明亡くなった事件の続報です――」
偶然、そんなニュースにチャンネルが合ってしまった。このラジオ、もっと空気が読めないのだろうか。仕方ないので、私がフォローする。
「旧姓、アルコール中毒、ですか。すると、既婚者なのでしょうか?」
Kさんと真彩さんの方へ視線を向ける。今の切り返しは、なかなかだったではないだろうか?
「全然面白くないんだけど」
「つまらない大喜利をするんじゃない」
Kさんよ、地味に傷つくのだが……。
その後、佐山さんは夕方になって自力で起き上がった。とは言っても、まだ歩くことはできず、Kさんに肩を借りていた。私はおかゆを作り、真彩さんは薬局に車を走らせた。
「どうも、御迷惑を……」
そこから先は言葉にならなかった。まだ、アルコールが残っているようだ。この様子だと、三日酔いになるのではないだろうか。
「何か色々と、身体によさそうなもの買ってきました!」
廊下を走る勢いをそのままに、真彩さんがリビングに飛び込んだ。両手には、膨らんだビニール袋が握られている。解熱剤や車酔いの薬が見えた。それが二日酔いに効くのだろうか疑問だ。
「すまないな、真彩ちゃん。運転は平気だったかい?」
「はい、オートマ限定ですけど、マニュアルも意外といけました!」
私は車や免許のことはよく分からないが、それはまずいのではないだろうか。道路交通法的に、色々と。
「藍子さん、調子はどうですか?」
「ええ、少しは……」
「藍子ちゃん、食べれるだけ食べたら、薬を飲んで横になるといい」
心配する私を余所に、Kさんと真彩さんは法律のことなどまるで気にしていないようだ。佐山さんは、まるで完全看病体制だ。うらやましい。私もKさんに看病してもらいたい。
すっかりと暇になった私は、ラジオを持って二階のベランダで聞いた。
「では、今日も頂いたファックスを読みましょうか」
「そうですね。それでは、どれにしましょうか?」
この番組、時間帯はまちまちでやっているようだ。前回聞いたときは、もっと早い時間だったはずだ。
「ええと、東京都にお住いの方ですね。いつも、番組を楽しみにしています――おっと、ありがとうございます。私の夫は、紙を作る会社に勤めています。夫はそこで営業をしていて、周りの人たちの助けもあって成績がよいそうです。今度、そんな夫が昇進することになり、何かお祝いをしたいと考えています。何かいい案はないでしょうか、とのことです」
「旦那様のご昇進、おめでとうございます。きっと、奥様の助けがあったからこそ、できたことなのでしょうね」
「ええ、きっと素敵な奥様でしょう」
「夫婦が感謝の心を持ってお互いに接するのはいいことですね。私の妻も、私のことを応援してくれるといいんですけど」
「それにしても、お祝いですか。やはり、何か形に残るものですか?」
「新しいネクタイ、なんて素敵では?」
「それは、ちょっとありきたりですね。私としては、やっぱり、美味しい手料理でしょうか」
「それは、毎日作っているのでは?」
「確かに! ははは!」
そう言えば、七海と和人の夫婦の仲が冷えている、と弟の憲四郎が言っていた。昨晩のことだが、思い出すと気になってしまった。だから、憲四郎に電話をして、七海への伝言を頼んだ。
「何か贈り物をすれば、仲直りできるかも知れません」
「公二郎兄さんにしては、まともな助言ですね」
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗