セロ弾きのディレッタント
「Kさんのことですね。それは以前にお聞きしています」
「あと二人増えました」
「兄さん、捨て猫ではないのですから……」
受話器の向こうからため息が聞こえた。何か仕事で嫌なことでもあったのだろうか。残念だが無職の私では相談に乗れない。どうか、その手のことは七海〈ななみ〉にでも打ち明けてくれ。
「……まあ、いいいでしょう。それで、その人たちの素性は?」
「一人は、私の大学時代の恋人です。もう一人は、Kさんの高校時代の同級生で、近所に住んでいる方です」
「大学時代、というと、あのピアノの上手な人でしょうか? 田井中さん、だったでしょうか?」
「はい、田井中真彩さんです」
さすが、憲四郎。私と違って記憶力に富んでいる。
「まあ、昔の恋人なら問題はないでしょう。ですが、近所に住まわれている方が、どうして兄さんの家で居候を? ご自宅の改装中ですか?」
「それが、少々訳がありまして」
私は、佐山さんの抱えている問題を説明した。すると、憲四郎は急に押し黙ってしまった。どうしたのかと尋ねると、やっと声が聞こえた。
「公二郎兄さんは、何も考えずに佐山さんを匿っているようですが、もう無関係ではいられません」
「と言うと?」
「実際に離婚をするとなると、財産の分配や慰謝料のこともあります。さらに、佐山さんの場合はDVが絡んでいますから、裁判沙汰も起こりうるでしょう。となれば、兄さんも少なからずそれに関わらねばならない立場となります」
「なるほど。憲四郎は詳しいですね」
「常識中の常識です。入宮〈いるのみや〉家との離婚で我が常盤家が多額の慰謝料を払ったことは、当然兄さんもご存知でしょう」
そういえば、そんなこともあった気がする。
「そちらには、あのKさんがいらっしゃるから大丈夫でしょうが、兄さんもできることはして差し上げてください」
「ええ、Kさんと話してみます」
何だか眠くなってきた。情けないことだが、眠るとしよう。
「ああ、そうだ! 離婚と言えば!」
「言えば?」
「七海姉さんと和人〈かずと〉義兄さんが、上手くいっていないそうです。どうも、義兄さんがセックスに応じないとか」
「そうですか、和人が……」
常盤和人。旧姓、雨宮〈あまみや〉。私の高校時代の同級生だ。誰も知らないが、私は彼から交際を申し込まれたことがある。私が断ると、私そっくりな妹の七海に近づいて常盤家の入り婿となった。
「姉さんは、かなり憔悴されているそうです。父上は、そのことに大層お怒りだそうで、近く和人義兄さんが取締役から外されると噂されています」
父は、私たち四人きょうだいの中でも特に七海を気に入っている。入り婿がその娘の気持ちに応えないとなれば、間違いなく首を飛ばされるに違いない。下手をすれば、それ以上のこともありうる。
「公二郎兄さん、仲裁はできないでしょうか?」
「さあ、どうでしょうか……。むしろ、さらにこじれるのでは……」
眠い。和人の気持ちが変わっていないのならば、私が関わるのは火に油だ。それにしても眠い。今日は眠ろう。このことは、明日にでもKさんに相談してみようか?
「憲四郎、おやすみなさい」
「兄さん、お待ちください」
私は子機を置き、リモコンで電気を消した。酔いはなかったが、すぐ眠りに落ちてしまった。
9
目が覚めると、外はまだ薄暗かった。元々この周辺は静かなところだが、この時間帯はいっそう静まり返っている。だからこそ、小さな物音でもしっかりと聞こえた。一階で誰かが何かをしているようだ。
私は降りた。リビングに行くと、ちょうどKさんが着替えをしていた。ジャージのズボンを穿いているところだった。
「やあ、おはよう」
Kさんから挨拶をされたが、私は躊躇った。だが、私は彼女の裸を見たこともあったので、いまさら着替えを見たくらいで罪悪感や恥ずかしさを覚えるのも馬鹿馬鹿しいことだと思い、何事もなかったかのように挨拶を返した。
「おはようございます。あれからどうなりましたか?」
リビングを見渡しても、真彩さんと佐山さんの姿は見えない。きれいに後片付けもされており、アルコールの香りが微かに漂っていることを除けば昨日あったことが嘘のようだった。
Kさんは床で柔軟運動をしながら答える。
「二人なら、ちゃんと部屋に運んだよ。真彩ちゃんは、一階の玄関の側の部屋でよかったかい?」
「ええ、そこです。ちなみに、魔女裁判はどうなりましたか?」
「おいおい、嫌なことを聞いてくれるな」
「すみません。ですが、慌てているKさんがあまりにも可愛かったので」
ビデオか何かで録画しておけばよかった、と今では後悔している。今度、通販で機械を買っておこう。
Kさんが朝のランニングに行ったあと、私はシャワーを浴びた。新品の服に着替えたあとは、二日酔いの二人のために色々と手を煩わされた。吐瀉物を浴びせられたので、もう一度シャワーを浴びた。
「苦労かけたなぁ……」
真彩さんの部屋に戻ると、開口一番にそう言われた。室内には、まだ吐瀉物の臭いが残っていたので、私は窓を開けて換気した。朝特有の清々しい風が吹き込んできて気持ちがよかった。
「藍子さんは大丈夫? 私より飲んでたみたいだけど……」
「先ほど見た様子では、真彩さんよりも酷い二日酔いに苦しんでいました。昨日のことはまったく覚えていないそうだったので、私の覚えている範囲でお伝えしたところ、頭を抱えておられました」
「ハム二郎、そこは何もなかったことにしてあげようよ……」
何故か、真彩さんに呆れられてしまった。私はただ単に聞かれたことに対して答えただけなのだが……。
「ところで、朝食はどうされますか?」
「食べる。ハム二郎は、食べた?」
「私もこれからです」
一緒に朝食を食べることになった。私が作る間、真彩さんはソファーに横になっていた。途中で何度か話しかけてきたことから推測するに、体調は回復しつつあるようだ。
「そういえば、昨夜、弟に連絡をしました」
「えっと、憲四郎さんと譲五郎〈じょうごろう〉さんだったっけ?」
「はい、その通りです。よく覚えてらっしゃいますね」
私の記憶が正しければ、私は真彩さんを一度だけ本邸に招いたことがある。弟たちとも、その際に面識を持っているはずだ。
朝食の用意ができたので、食べながら話を続ける。
「あのときは、めちゃ緊張したね。人生で一番だったかも」
「服装や作法を異常に気にされていましたね」
「そりゃするって。だって、常盤家の本邸に行くんだからさ」
「と言いながら、最後には出来上がっていましたが」
「うぶっ!」
真彩さんが飲んでいた味噌汁を吐き出した。まったく、品がない。
「そ、それは言わない約束でしょーが……」
「そんな約束をした覚えはありません。それよりも早く拭いてください。そこにティッシュがありますから」
始末は真彩さんにさせ、私はそのまま食べ続けた。私が食べ終わる頃に、彼女はちょうどうがいから戻った。
真彩さんは私を恨めしそうに睨んだ。
「よくも人の恥ずかしい過去を……」
「どんな過去でも、それを受け入れて乗り越えることで人は成長することができる――とKさんがおっしゃっていました」
「ふーん、Kさんがそう言ったんだ?」
作品名:セロ弾きのディレッタント 作家名:霧島卿一朗