愛を抱いて 5
「俺のは、約束された運命さ。」
「まあ?
そうなの。
それでレコード・デビューは、いつ頃の予定ですか?」
「そうだな…。
今年中にオーディションに受かるから、…まあ遅くとも来年の春には、アルバムが出るんじゃない?」
「自信があるのね。」
「自信なんてないさ。
単なる思い込みだよ。」
「私のは、女優になる思い込みすら哀しんでるわ。」
6月30日の午後、私と香織は銀座の舗道を歩いていた。
二人でリバイバル映画を観に行く途中であった。
東京に来て、私が心から良かったと思ったのは、映画とコンサートが飽きる程観れる事であった。
映画については、ロードショーがある事だけでなく、二流館、いわゆる名画座が沢山ある事が嬉しかった。
中でも、高田馬場と銀座の二流館は、私の好きな映画を沢山上映してくれた。
「私、エキストラのバイトを時々やってるのよ。」
「へえ。
どうして隠してたの?」
「隠してたつもりはないわよ。
『国際プロ』っていうのが、代々木にあるの。」
「女優修行って理由か。」
「まあ…ね。
俳優を目指してる様な人間じゃないと、やってられないでしょうね。
アルバイト料は凄く安いし、時間が目茶苦茶なの。
朝6時頃から集合させといて出番が昼過ぎだったり、夜の11時を廻っても帰らせてもらえないなんて事はしょっちゅうよ。
それに女の子の扱いが酷くて、平気で裸になってとか云うのよ。」
「なったの?
裸に…。」
「まさか。
でも水着で出演させられた事はあるわ。」
「裸になるエキストラの娘とか、実際にいるの?」
「裸はまだ視た事ないけど、下着姿なら、平気でなる娘がいるわ。」
「俺もそのバイトやろうかな。」
「やれば。
芸能人にも逢えてよ。」
映画を観終わって、我々は来たのと同じ路を歩き、地下鉄に乗った。
〈九、赤石美容室〉
10.ディスコ三栄荘 ~風を変えて~
電車は沼袋に着いた。
「6月も、もう終わりね。
私達の関係は、いつまでもつのかしら…?」
香織は私の右腕に両手を廻しながら云った。
「さあ…?
取り合えず2ヶ月はもったな。」
夜近い沼袋駅前は、仕事帰りの人々で混雑していた。
「初めて逢った頃と比べて、私、変わったかしら?」
「どうして?」
「最近、一人でいる時も、あなたの事ばかり頭に浮かんで来るのよ。
あなたは全然変わらないわね。」
何か云おうとして、私は止めた。
踏み切りの向うに、柳沢が立っていた。
次の瞬間、香織は私の腕に巻きつけていた手を離した。
柳沢は、夕食を食べに部屋から出て来た様子だった。
彼は、こちらを視ていた。
「よお。」
私は明るく声をかけた。
その夜、香織が飯野荘へ帰って行った後、私は柳沢に彼女と付き合っていた事を告白した。
「俺と久保田とは、特別な関係は何もないのだから、気にする必要はないさ。」
柳沢は云った。
「でも一つ残念なのは、彼女が変わってしまった事だ…。」
彼は続けた。
「…群馬にいた頃の彼女は、何か男を近づかせない、ある種の雰囲気を持っていたんだ。
男の云う事を、素直に聴く様な女じゃなかった。
女の弱さを男に見られるって事が、彼女にとって最大の屈辱だったのさ。
仲間はみんな、彼女の事を『あれは強い女だ。』と云った。
なぜか俺は、そんな彼女の言動がいつも気になってた。
でも東京へ来てから、彼女は変わったよ…。
彼女は頭の良い女だ。
彼女は大学を落ちたが、ちょうど高校三年の冬に、前から体の弱かった彼女の母親が倒れて入院する騒動があった。
彼女は、大学受験に失敗した事と母親が入院した事が関係ある様に云われるのを、とても哀しんだ。
彼女と喋ってると、彼女の頭の良さが凄くわかるんだ。
そんな彼女が、東京という都会のせいで変わったとは、考えられない…。」
柳沢は言葉を切った。
「お前はまだ、彼女の事が好きか?」
私は訊いた。
「…いや。
俺はずっと彼女に対して、普通の恋愛感情を自覚した事はない。
彼女の顔や、髪や声が好き、というわけではない様な気がする。
きっと、彼女の生き方に、魅力を感じてるのさ。
だから、以前と違ってしまった彼女を、残念に思うのかも知れない…。」
7月1日、中野の空を吹く風と、街の色が変わった。
私には、そう感じられた。
大学の帰り、久しぶりに「高月庵」へ寄った。
「あ…、鉄兵君。」
世樹子は入って来た私を視るなり、泣き出しそうな顔をしてそばへ走って来た。
「昨日、大変だったんですって…?」
まるで世界が終わるかの様に、不安に駆られた声で彼女は訊いた。
「ああ。
大変だった。」
椅子に座りながら、私は云った。
「香織ちゃん。」
世樹子は香織を呼びに、奥へ走って行った。
私は、水もお絞りも来ていないテーブルで、煙草に火を点けた。
奥から香織と世樹子が出て来た。
「ゆうべは、お疲れ様…。」
照れ笑いを浮かべて、香織が云った。
「真面目に仕事しろよ。」
私は云った。
「あ、御免なさい…。」
そう云って世樹子は、水とお絞りを取りに、また奥へ駆け出した。
香織は声を出して笑った。
そして三角巾とエプロンを着けたまま、私の正面に腰掛けた。
「三栄荘は平和かしら?」
頬杖を突きながら、香織は云った。
「ああ。
平和だよ。
柳沢に全部話したけど…。」
「あら、全部云っちゃったの?
それで、彼の様子は…?」
「驚いたみたいだけど…、友情にひびは入らなかった。」
「そう。
良かった…。
そっか。
平和なのか…。
でも、少し残念ね。
もうシークレット・ラブじゃないなんて…。」
彼女は安心した様だった。
私が店を出る時、念を押す様に香織は訊いた。
「本当に、今まで通りね…?」
私は頷いた。
しかしその日、私は風が変わった事を、確かに感じていた。
フー子は、ブロードウェイの地下にある、狭いカウンターの他にテーブルが一つしかない、小さな喫茶店でアルバイトをしていた。
7月3日の夕刻、私はその喫茶店に立ち寄った。
「聴いたわよ。
柳沢君に、ばれちゃったんだって?」
予想通りの言葉を、彼女は云った。
土曜の午後からと日曜には、常に満席になっているその喫茶店も、その時は私の他に客が一人もいなかった。
「今夜、洗濯に行ってもいい?」
私は、煙草をくわえながら云った。
「いいわよ。
今日は金曜だから…、8時には部屋に居るわ。」
私が珈琲を飲み終えかけた時、二人目の客が入って来た。
柳沢だった。
午後8時半頃、私と柳沢は洗濯物を持って、フー子のアパートへ行った。
「お腹、空いてない?」
と彼女は云い、御飯が余ったからとチャーハンを作ってくれた。
「フー子ちゃんて、優しい女だったんだね。」
私は云った。
彼女は香織の事について、柳沢に気を使っている様だった。
「あら、そうじゃないと思ってたの?」