愛を抱いて 5
9.赤石美容室
後わずかの勇気さえあれば、あの洞穴がどこに続いているのか解ったかも知れなかった。
私には、途中で引き返してしまった事への後悔と、新しい好奇心が残った。
「あなた達の事、まだ柳沢君には内緒なんでしょ?」
フー子が云った。
香織は私を視た。
「うん、まあね…。」
私は云った。
「頑張ってね。
私は、あなた達の味方よ。」
「ありがとう。
鎌倉へ行った事も、ここへ来た事も、彼の前では秘密よ。」
香織が云った。
「そっか…。
ちゃんと覚えておかなくちゃね。
私、大丈夫かしら…?」
「あら、頼りないわね。
しっかり振舞ってもらわなくちゃ困るわ。」
「そんなに責任を被せないでよ。
でも、頑張るわ。」
「ただ…、もしかしたら心配なくなるかもよ。
私達、今日縁切り寺にも行ったの。」
私は黙って、二人の会話を聴いていた。
6月22日の夜、私と柳沢は銭湯から帰ると、1リットル入りのスプライトとお菓子を買って、フー子のアパートを訪れた。
「御免なさい。
ちょっと待ってて。」
部屋の中から彼女は云った。
しばらくしてドアが開いた。
「御免ね。
パーマかけてた処なの。」
彼女はシャワー・キャップを被っていた。
「へえ。
自分でパーマをかけるんだ。」
柳沢は、感心した様に云った。
「簡単よ。
液を着けて、巻いて、時間が来ればでき上がり。」
「でも大したものだ。」
「パーマは簡単だけど、カットは難しいのよ。」
彼女は私の首に大きなタオルを2枚巻き付けた。
「何度も云うけど、上手くいくかどうかは保証できませんからね。」
そう前置きをしてから、彼女は私の髪を切り始めた。
彼女は無駄口を一切云わず、一心に鋏を動かし続けた。
私は「動かないで」と何度も注意を受けた。
我々二人の髪を切り終えてから、「疲れた」と云って彼女は身体を倒した。
「なんだ。
ちゃんと普通にできてるじゃない。」
私は鏡を覗いて云った。
「ありがと…。」
彼女は溜息を吐いた。
「美容学校って、面白い?」
柳沢が訊いた。
「まあ面白いけど、いやな処もあるわ。」
市販飲料の中で一番好きだという、「スプライト」を飲みながら彼女は云った。
「先生がね、服装にまであれこれ文句をつけるの。
前の日と同じ洋服を着てたりしたら、『あなた、外泊したんですか?』なんて皆の前で云うのよ。」
「それにしても、凄い化粧品の数だね。」
「勉強で要る物なのよ。
ローンで買ったけど、支払いが大変…。」
私は金額を聴いて、女性用化粧品の高価な事に驚いた。
彼女はシャワー・キャップを取り、髪を留めていた無数のピンを外して、軽くブラシをかけた。
「あ、そう云えば。
私、溜まってるのよね。」
鏡に向かったまま、彼女は云った。
私は彼女を視た。
ブラシを置いてこちらを振り返ると、彼女は云った。
「洗濯物が…。」
我々は3人でコイン・ランドリーへ行った。
「コイン・ランドリーって、凄く不潔なんですってね。」
お湯の出る200円の方の洗濯機に、洗濯物を入れながらフー子は云った。
「土方の連中が、汚れた作業服を洗いに来るらしいな。」
私は云った。
「俺、オッサンが靴洗ってるのを視た事あるぜ。」
柳沢が云った。
「やだあ。
本当?
洗濯機が欲しいわ。」
「買おうか。
3人で。」
「そうだ。
3人で洗濯機を買って、共同で使おう。」
「いいわねえ。
買ってよ。」
「3人で買うんだよ。」
「ガチャン」と音がして、洗濯機は止まった。
彼女は洗濯物を乾燥機に入れ換えた。
乾燥機が勢いよく廻り始めた。
私はゆっくりと乾燥機の窓に顔を近づけた。
じっと見つめていると、眼が廻りそうだった。
トレーナーやTシャツの間から時折、ショーツとブラジャーが見えた。
彼女は思い切り私の背中を叩いた。
かなり痛かった。
6月25日、広田みゆきから手紙が来た。
それには、横浜駅で電車の窓に描いた「おやすみ」が、とても印象深かったと書かれていた。 また、良ければ電話してほしいとも書いてあった。
私が別れ間際に、曇りガラスに描いた「おやすみ」は、思わぬ効果を発揮したらしかった。
「おやすみ」の効果は本当に素晴らしく、次の日、ダンス・パーティーで知り合ったもう一人の女、佳子からも手紙が届き、同じ様な事が書いてあった。
私は二人の女の顔を、よく思い出してみた。
みゆきは、声をかける前から、会場の中で私には気になっていた女だった。
佳子の方は派手な装いしか、思い出せなかった。
6月27日には、フー子と柳沢と私の三人で金を出し合って買った、全自動洗濯機が三栄荘に届いた。
洗濯機は1階の共同炊事場の横に置かれた。
しかし翌28日の朝、私と柳沢は管理人の声に起こされ、勝手に洗濯機を置いてもらっては困ると云い渡された。
洗濯機はフー子の部屋へ運ばれる事になった。
6月29日、佳子からまた手紙が来た。
( 前略 今、なぜか慌てながらこの手紙を書いています。
昨日学校で、あなたに手紙を出した事をみゆきに話すと、何と彼女も書いたと云うではありませんか。
二人でびっくりしました。
でも一番驚いたのは、あなたでしょうね。
パーティーの時にも話した通り、みゆきと私は高校時代からの親友なのだけれど、同じ人を好きになるなんて仲が好すぎると云うか…。
私が手紙に書いた事は、どうか忘れて下さい。
きっと、あなたは私の事など何とも思ってやしないのに、勝手な云い分を許して下さい。
身勝手のついでに、お願いがあります。
みゆきに、もう一度逢ってやって下さい。
実は、びっくりした後二人で話し合って、彼女も私もあなたには逢わないって約束をしたのです。
彼女は視ての通りおとなしい性格で、自分から男性に気持ちを伝えるなんて事は、今まで一度もありませんでした。
私は、彼女があなたに手紙を出したという事が、いまだに信じられません。
ただ、彼女は本当に人を好きになったのだと思います。
私は彼女をよく知っています。
あなたは、初めて彼女を変えた人なのです。
どうか彼女をよろしく…。
彼女のそばでまた逢えるのを楽しみにしています。
本当に、勝手な事ばかりで御免なさい…。
かしこ
追伸 みゆきが書いてるとは思いますが念のため、彼女の住所と電話番号を記しておきます。)
読み終えて私は、逆になってたら大変だったなと思った。
「君には、夢みたいなものがあるかい?」
私は訊いた。
「…あるわよ。」
「何だい?」
「笑われるから、いいわ。」
「笑わないから、云ってよ。」
「本当に笑わない?」
「ああ。」
「私、…俳優になりたいの。」
香織は恥かしそうに云った。
「笑わない約束でしょ。」
「笑ってないよ。」
「眼が笑ってるのよ。」
私は眼を閉じた。
しかし今度は、口もとが歪みそうになった。
「あなただって、シンガー・ソング・ライターが夢なんでしょ?」