愛を抱いて 4
あ、ごめんなさい…。
聴いた事がないものだから。」
「そう?
名前だけは、けっこう有名なんだぜ。」
私は云った。
彼女達はフェリスの1年生だった。
「ああ、解った。
法政でしょ?」
佳子の方はよく喋ったが、対照的に「広田みゆき」と名乗った方は非常に口数が少なかった。
装いも佳子の方が派手であった。
しばらくして、佳子と柳沢は席を立ち、二人で踊りに行った。
クインシー・ジョーンズの「愛のコリーダ」が、何度もかかっていた。
「たくさん煙草を吸うのね…。」
ぽつりと広田みゆきが云った。
私は慌てて、火を点けたばかりのセブンスターを消した。
「あ、違うの。
そういう意味じゃないの。
ただ、よく吸うんだなって思ったから…。
…御免なさい。
急に変な事云って…。」
「いや。
この煙草、フィルターのところが折れてたんだ。」
みゆきの父親は個人病院の院長という事だった。
柳沢が彼の大学の友人にこのダン・パーのチケットを2枚売りつけられ、その1枚を私が買わされたのだが、支払った金の見返りは充分であった。
所定の時間が来て、ダンス・パーティーは終わった。
氷川丸を下りると、雨が激しく降っていた。
私と柳沢は傘を持ってなかったので、彼女達の傘に入れてもらい、4人で関内駅の方向へ歩いた。
途中で喫茶店に寄り、しばらく話をした。
関内から電車で横浜へ行き、駅の近くのパブに入った。
水割を一杯呑み終えると、もう終電の時刻が近づいていた。
彼女達の帰りは鎌倉の方向だった。
東京方面の最終がホームに入って来た。
私と柳沢は階段を駆け下りた。
まだ電車の来ない隣のホームで、佳子とみゆきが手を振っていた。
雨はまだ降り続いていた。
私は水滴で曇った電車のガラス窓に、指で「おやすみ」と描いた。
柳沢が笑った。
その夜出逢った2人の女の品定めをしながら、我々は最終電車を乗り継いで中野へ帰った。
〈七、フェリス女学院ダンス・パーティー〉
8.アジサイ寺
6月17日、私は香織と鎌倉へアジサイを観に出かけた。
「晴れて残念だわ。」
空を見ながら彼女は云った。
「どうして?」
「アジサイ寺へ行くのなら、小雨が降ってた方が好いのよ。」
「午後からは曇るそうだぜ。」
通称「アジサイ寺」と呼ばれるその寺は、北鎌倉駅の近くにあった。
けっこう広い寺の中は坂が多く、路は階段になっていた。
「本当のアジサイの花は、どれだか知ってる?」
香織が云った。
「どれって、これが全部そうだろ。」
私は、辺り一面に咲き乱れているアジサイを指した。
「近づいて、よく視てみなさいよ。」
私はそばのアジサイに顔を近づけた。
「それは、花びらじゃないのよ。
その小さな一つ一つが、アジサイの花なの。」
「へえ。
そう。
知らなかった。」
私は花びらの様なアジサイの花を視つめた。
「あなたがアジサイの花だと思っていたのは、数えきれない程たくさんの、花の集まりよ。
アジサイの花は、遠くでも鮮やかに眼に映える物ではなくて、小さすぎてそばへ寄らないと視えない物なの…。」
空は少しずつ雲が拡がり、陽を隠していった。
坂路を上りきった処で、絵馬を売っていた。
おびただしく掛けられた絵馬を引っ繰り返して視ると、ほとんどが恋愛成就を祈ったもので、残りは合格祈願だった。
「このお寺へやって来た男女は、必ず結ばれるって云われてるのよ。
知ってた?」
「もちろん、知らなかった。」
雲が厚くなってきた。
彼女の強い希望で、我々も絵馬を買った。
「何があるんだろう?」
寺の入口から向かって右奥の山の斜面に接した、狭い広場に人が集まっていた。
斜面には二つの横穴が開いていた。
左側の穴は浅く、奥の壁に沢山の蝋燭が立てられていた。
どうやら、水子の霊が祭ってある様子だった。
右側の穴は、かなり深そうであった。
「面白そうだ。
行ってみよう。」
「私はいやよ。」
意外にも、彼女は怖いと云った。
「絵馬を買ってあげたじゃない。」
私は無理矢理彼女の手を引いて、中へ入った。
洞窟は入って少し行った処で、左へ直角に曲がっていた。
そしてすぐに、今度は右へ90度曲がった。
そこからは真っ暗で、何も視えなかった。
私はライターの火を点けた。
辺りは若いカップルで混雑していた。
しばらく進むと洞窟は急に狭くなり、背中を屈めなくては歩けなくなった。
次第に人の数が疎らになり、やがて我々の他には人の気配がしなくなった。
彼女は、もう引き返そうと云った。
どうせすぐ行き止まりになるだろうと思っていた私は、洞窟の長さに驚いていた。
と同時に、好奇心が込み上げて来た。
「こいつは凄いな。
もっと行ってみよう。」
帰りたいと云う彼女を引っ張って、私は進んだ。
洞窟は真っすぐに続いていた。
「うわっ!」
私は足を滑らせた。
水溜まりがあるらしく、膝から下が濡れた。
洞窟は急に広くなった。
が、すぐにまた狭くなっていた。
地面にも起伏があって、つまづかない様注意しなければならなかった。
洞窟は、広くなったり狭くなったりを繰り返した。
非常に狭くて、服や頭を土の壁と接触させながら進まねばならぬ処もあった。
処々に大きな横穴や下穴があった。
ライターは熱くて、もう点ける事ができなかった。
香織は私の手を、しっかり握り締めていた。
「もう満足したでしょう?
帰りましょ。」
彼女は哀願した。
「うん。
行き止まりになったら帰ろう。」
「きっと何もないわ。
ただの洞穴よ。」
「そうさ。
ただの洞穴だから、怖くなんかない。
もう少し行ってみよう。」
「意地悪云わないで…、帰りましょ…。」
「どうしても帰りたいのなら、先に帰ってて好いよ。
俺はもう少し行ってみる。
折角来たんだから。」
「一人で帰れないわよ。
もう…、意地悪ね…。」
彼女は泣き出した。
何とか彼女をなだめて、さらに進んだ。
どれ程の時間その中にいるのか、判らなくなっていた。
1時間以上歩き続けている様にも、先程からわずかしか経ってない様にも思えた。
香織は泣き止んだが、ずっと黙っていた。
進んでも進んでも、暗闇はどこまでも続いていた。
(長過ぎる…。)
自分が前へ進んでいる事を、私は疑い始めた。
(もしかしたら、この洞穴には果てがないのではないだろうか…。)
そんな気がしてきた。
その時であった。
ずっと先の方で音がした様だった。
私は我に返り、体を緊張させた。
確かに音は聴こえた。
聴覚に神経を集めて聴くと、それは水滴が水溜まりに落ちる音らしかった。
「水の音か…。」
私は声に出して云った。
「そう云えば、入る時、水子が祭ってあったわね。」
香織が云った。
突然、私は恐怖を覚えた。
「疲れたな。
引き返そう。」
早口に云うと、私は急いで闇の中を帰り始めた。
私は怖くなっていた。
「待って。