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蓮の池の辺りで

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水面に私の姿を映す。改めて私の姿を見てみようと思ったからだ。私の姿が今も美しいか確認してみたかった事もある。しかし、一瞥したあと後悔した。水面の私はいつの間にか年をとっていた。艶やかと思っていた顔立ちは下品になっていた。私は自分の姿にまで失望を味わうことになってしまった。いっそこの身を水底に沈めて死のうか。そうすれば私の亡骸を見つけた彼が憐れんで愛していた、と呟いてくれるかもしれない。そんな夢想をする。

魚が跳ねたような音が水面に広がる。何気なく視線をそちらにやった。魚も跳ねた波紋も無く、代わりに睡蓮の花を見つけた。その睡蓮はたった一輪、白い花を咲かせていた。
こんな真夜中に花を咲かせる睡蓮があるのだろうか。私はそんな睡蓮があるとは知らなかった。
その時突然、私は何も知らない、と大きな声が響いたような気がした。その声に、私は気付かされた。そうだった、私は何も知らなかった。
睡蓮の事を知らず、木々を知らず、世界を知らず、私自身のことを知らなかった。知っていたと思っていた物事は、そうであろう、という思い込みに過ぎなかった。突然、私は自分の身の回りの世界について何も知らないことを初めて知った。私は今まで知っていた物の名前を忘れた。目に映るものが全て新鮮な光景だった。目の前にある花について知らなかった。苦労して思い出すと、睡蓮、という名前が浮かんだ。私は手始めに睡蓮について学び始めた。花弁の数を、茎を、葉を、私との関係を学んだ。
私はその他の目にしたものを次々に学び始めた。夜が明け、明るくなると学ぶべきものはさらに多くなった。
あまりに目まぐるしく学ぶので少し閉口してしまった。一度微睡みかけたが、夢の中でまで学び続けるので眠るのは諦めた。幾夜かけて私の周辺の世界を学び終わると、私自身について学び始めた。私は私自身をこの時に初めて知った。世界と私の関わりを知った。
私は今まで美酒に酩酊していた事を知った。私はいつも飢え、愛欲は留まるところを知らなかった。私は初めて自分の身の丈を知った。
なんと私の小さい事か。自分を見かけより小人であると思ったわけではない。今まで自分を大きく思い、大きく見せかけようとしていたのに気がついたのだ。
私はあるがままの私を受け入れた。美に陰りの見える顔を、肩にある痣を、智慧の不足を受け入れた。と、同時に私自身を愛おしく思うようになった。私は私を愛しはじめた。
私が私を愛し始めると、私と周囲が今までとは違う意味を持ち始めた。沼は泥水の水溜りから、蛙や沼蝦が住まう場所となった。陰気だと思っていた森は、木々の木葉の葉脈の一本一本が見て取れるようになった。
私はまた、自分の可能性を見出してた。その事を告げに彼に会いに行こう、と思った。道を戻る決心がついた。それは自分でも呆気に取られるくらい容易なものだった。ただ気になったのは、マハーカッサバの事だった。彼の謝罪を受け入れるという約束を破ってしまった。その事については申し訳なく思う。私の成してしまったことだから、謗りは受け入れるほかない。

その時突然、私の心に暗い影が差した。暗い影というほかない、それは私の心を以前の私に引戻しに来ていた。私は困惑してしまった。それの正体を探るため、私はそれの声に耳を傾けた。その声は言葉を変え繰り返し話していた。
「売女めが。それで高みに登ったつもりか。はは。お前は変わらぬ。お前はお前だ。さっさと元の姿に戻るがいい」
これは彼の言っていたマーラだろうか。しかし話に聞いていたのとは随分違う。彼の元に現れたマーラはもっと甘言を弄していたと思った。私のこれは随分乱暴で下品だ。しかし、私はこれのお陰で彼の元に行くことができなくなってしまった。仕方なく、腰をすえてこれの相手をすることにした。

私はこれにマーラと名付けた。名前がないのは不便だし、この名前がもっともふさわしいように思えたからだ。初めはマーラと対話を試みたが、大体のところ無駄だった。マーラは私の話を聞く気が無いように思えた。ある時はマーラは、私に対してはっきりと罵倒を繰り返していた。また、しばしば私の心はマーラに既の所で乗っとらるところとなった。マーラの言葉の毒が気がつかないうちに私の心に染み渡ったためだ。そのような時、私の周りの風景は、薄暗い影がさした。
マーラの相手をしていて気がついたのは、私の情動の大本はマーラだったということだ。マーラは私の奥底に居城を構えていた。私だけではあるまい。おそらく誰の中にも居城があるのだろう。私の心想の広大な版図のうちの、ちっぽけな居城から常に私を窺っている。マーラは私の五感を通し世界との縁を得、私の心に静かに甘やかな毒を流す。その毒は情動となり私の心を蝕む。それは怒りとして、または愛欲として、あるいは酩酊として私に現れる。
マーラの力は大変強く、私がマーラの毒に侵されると、私は奴隷のようになる。奴隷の主人は私であるはずなのに、私はまた奴隷でもある者になる。その時私は自分の可能性を信じることが出来ず、未来に渡って私を何も出来ない状態のままに留め置こうとする。
その事に気づいたとき私は、マーラの望むものは私を自らの奴隷に留めおくことであるとついに知った。

私はマーラと折り合いを付ける方法を学んだ。マーラの毒は静かで甘くすみやかに渡る。だからそれを拡げないことが肝要だと気づいた。マーラの毒が忍び込んだ時は、彼の言葉に耳を傾ける。それからその言葉を拒否する。
「それは違う。何故なら私は正しいから」
時にはマーラのように口汚く罵ることさえする。そうするとマーラは自らの居城に一時退散する。
また、マーラは私の知る者の姿をとって現れることもある。この時は非常に厄介と感じる。何故なら私はつい迂闊にもマーラの侵入を許してしまうからだ。マーラは父母の姿を取る事も多いが、一番厄介なのは彼の姿をとった時だ。彼の姿を纏ったマーラに私自身を否定されると、私はついマーラの罠にかかってしまう。しかし、罠にかかったとしても、罠だと知ることが要なのだ。マーラの罠にはまった時は、その時為していた事を成す。そのうちにマーラは根負けして退散する。マーラが現れるときは、私は正しいことを成していると知った。
マーラの毒が回りきらないうちに手当をすることが肝要なのだ。その事を理会すると、私は幾分気が楽になった。

マーラと折り合いを付けると、私は彼の元に急いだ。彼に会う必要があると感じたからだ。
しばらくぶりに見た彼は、瞑想を終え人々に語りかけていた。語調は優しいが、その言葉の内容は今までにないほど激しい物だった。私は、彼がついに内心を現したと理会した。果たして聴衆の何人が彼の言葉を理会できるのか。私は彼がその事で傷つかなければ良いと願う。
私が彼の元に近づいたとき、彼の言葉が止まった。私はそれが彼の同意の印と受け取る。聴衆の隙間を縫って彼に近づく。正直にいうと、異形の身を好奇と猜疑の目で見られるのは困惑する。私はあの鉢を払い落とした娘を目で探すが、あまりの数の多さにその努力を諦める。
ついに彼の足元まで来たとき、まずはマハーカッサバとサーリプッタの前に立った。
作品名:蓮の池の辺りで 作家名:cajon