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蓮の池の辺りで

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暗闇のなかで、人がこちらに向かってくるのが判った。足取りがおぼつかないのは、足元が良く見えないせいだろう。私にはそのようなことはないのだが。こんな所にも龍と人の違いがあったとは意外だった。やって来たのは女だろう。彼に付き従う者の一人に違いない。
目鼻立ちが判るほど近づくと、若い女だということが判った。物腰からまだ子を産み育てていないだろう、と思う。どこか危うげで儚い印象の娘だ。その娘は鉢をもっている。こちらの方に歩いて来るということは、私に用があるのだろう。私の他にその鉢を受け取るべき者が居ない。
娘の顔を間近で見れるまで近づいたとき、娘の目がはっきりと見えた。その目は忙しなく動き、私を見つめようとしない。私は娘の目に怯懦の色を認める。と、同時に鉢を私に捧げるのは娘の行なのだと理解する。
「これをどうぞ、龍の奥方様」
私は地面にこぼれ落ちた鉢と食物を見つめ、娘を見つめる。なぜ鉢と食物が落ちているのか。痺れたような頭で考える。娘が私に鉢を差し出した刹那、私は娘の腕ごと鉢を払い落とした。私の意識がその動作を止める間もなく、腕が動いていた。遅れて私の意識が私の成したことの重大さに気がついた。
私は娘の行いに激情を発し、拒絶した。なぜそのような怒りを、などと考える気力も無い。ただ食物を見つめている。
娘は足早に立ち去っていた。怯えていたのだろう。私には娘に声をかける資格がない。私は上体を地面に近づけ、食物を拾い集める。鈍重な動作だがこれ以上早く動けそうにない。手が止まり、溢れた涙が地面を濡らす。嗚咽が止まらない。今人目を引きたくないと言うのに。
食物を拾い集め鉢に収めると、私は鉢を抱えて逃げ出していた。彼にこのような私を見られたくなかった。惨めで浅ましい私を見てほしくなかった。

私は草原を抜けた。崖を抜け森を抜けた。自覚はなかったが人気の無いところを選んでいた気がする。誰かに見咎められるのを恐れていた。暫く逃げたのち、私は止まった。目の前に湖沼が現れたからだ。湖沼の大きさが判らなかった。迂回して先に進む気にもなれず、その場で休むことにした。手にしていた鉢に目をやった。食物は土にまみれ、泥だらけになっていた。なぜ私はこの鉢を持って逃げたのか。冷静になって考えると私のとった行動は私にとっても不可解だった。私は鉢を持て余し、さりとて放り投げる気にもなれず、屈み込むと地面に置いた。
目の前の湖沼は湖なのだろうか、沼なのだろうか。ぼんやりと考える。月が水面に映えていた。水面の月を眺めているうち、暫く水浴みをしていないことに気づく。鱗の間に巣食う虫どもが気になるが、今は寛ぐような気分になれない。試しに水を掬ってみる。掬ってみると、ずいぶんと濁った水だと気づく。やはりこれは湖ではなく沼だろう。私の手のおかげで水面が揺れ、月が波紋の中に消えた。私は月を探すため空を見上げる。上を向くとまた涙が出てきた。嗚咽は出てこなかった。私が私を憐れむための涙だったからだ。私は泣きながら、自分が幼い娘に戻ったように感じた。いや、幼い娘子の時から何も成長していない様に思えた。私は成熟していながら、心の片隅で未だに幼い娘子だった。

突然、父王の声を聞いたような気がした。その声は記憶の中の父、サカラ竜王の言葉のような気がした。私は既に亡くなっている父の声に耳を傾ける。
「プラマシャティーナ、お前は美しくならないからこの宮殿にずっと住みなさい」
そうだった。私は幼い頃、その言葉を聞いて「私は美しくあろう」と思ったのだった。美しくならない、その言葉で幼い私はどれほど傷つき惨めな思いをしたか。私は幼い頃、他者に私の姿を見せるのが嫌いだった。醜い私の姿を晒すのが心の底から疎ましいと思っていた。常に美しくなりたい、美しくありたいと願っていた。それが何時しか美しくあらねばならない、にすり替っていた。美しくあらねばならない理由はその時々で変わっていたと思う。
私は父王に懐いていたが、心の底では嫌っていた。懐いていたのは母や乳母が懐かなければならないと言ったからだ。嫌っていたのは父の言葉のせいだと思う。確証はないが。父は何故私に「美しくならない」などといったのか。恐らくは一時の戯れの言葉だったのだろう。その時には、私を宮殿に留めおきたいと願って言った言葉だったのかもしれない。
私は物心ついてから醜い自分を好きになったことがない。成長して年頃の娘になった頃私に言い寄る男が現れた。私はその時初めて私が美しい娘になっていることに気がついた。私はやっと美しい自分を認めることが出来た。言い寄ってきた男は父母も私も好かなかったのですぐに現れなくなった。思えば年頃の娘に言い寄るなどと軽薄な男だったのだろう。
私はその頃から華やかに装うようになった。男達の気をひこうと思ったわけではない。単純に美しいと言われることが嬉しかったからだ。私は美しいと言われることに誇りと尊厳を覚えた。私自身を認めることが出来た。何時しか、私は美しい私を愛するようになっていた。
私は美しくない私を愛することが出来なくなっていた。それこそが、私が美しくあらねばならなかった真の理由だと、今判った。
私は私を愛していない。
気づいてはいけないことに気づいたような気がした。私はその事を認めるのが恐ろしいと思った。

彼と出会ったのは私が華やかな盛の頃だった。彼は既に龍の藩王の一人だった。歳若いにもかかわらず、何れ偉大な王になるだろうと目される程成熟していた。まずは父が彼におもねった。彼と彼の一族により一族の力の拡大を計ったのだろうか。その事については悪くないと思う。父はなにより藩王の一人であった。治めるべき版図があり、敵もいた。父の限られた力を彼に私を嫁がせることで補強した。凡庸な父にしては良い判断だったと思う。次に母が彼を気に入った。虚飾が好きな母にしては、滅多におべっかを使わない彼を気に入るとは珍しいこともあるものだ、と当時の私は思ったものだ。彼の伴侶となって、何故母が彼に好意を持ったのか理解した。そして私もまた、彼に好意を持った。彼の美しい顔立ちと、靭やかで力強い体と、地位と、何よりも彼を慕う者の数で。彼の信奉者は藩王の中にも多かった。彼の敵でさえも、彼の徳については認めないわけにはいかなかった。
私は彼の信奉者の中で、彼の妃である事に歓びを見出そうとしていた。彼の伴侶であることで私もまた彼と同じ高みに登ったと思った。いいえ、思いたかった。
彼との生活は、早々に幻滅を味わった。彼は質素な生活を好み、一方私は華やかな生活を欲した。彼はしばしば龍も人も問わず聖者とお茶を共にしたが、私は頻繁に宴を開いた。そして、彼はついに一度も私に愛していると囁くことはなかった。
にもかかわらず、私が彼に執着するのは、私の最も幸福だったときの記憶が彼と固く結びついているからだ。私は昔言って欲しかった愛の言葉を今彼に言ってほしいのかもしれない。

昔の事を思い出し、物思いに耽ってしまった。私は元来物思いにはあまり縁がない。だから、余計疲れる。
ここしばらくの間で、私は随分と内省するようになってしまった。彼の言葉を聞いたせいだろうか。
観照しろ。この彼の言葉を長い年月を経て今初めて試みているのだろうか。
作品名:蓮の池の辺りで 作家名:cajon