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蓮の池の辺りで

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よく知っていたはずなのに、今まで忘れていたかのように気に留めていなかった。何故、私は美しくあらねばならないと思い込んでいたのだろう?
――美しくないと、愛されないから――
私は誰かから愛されたかった。愛して欲しかった。幼少の頃は父や母から、結婚し共に暮らすようになってからは夫から愛して欲しかった。愛している、と囁いて欲しかった。それだけで私は満たされたはずなのに。
実際はそうではなかった。私は満たされなかった。愛していると囁かれなかった事もある。あるいは私の自尊心を満たすほど、私の美しさを讚められなかった事でもある。
美しく装っていれば、父母や夫以外の者、特に男達は私を持て囃した。女達のやっかみは私の美しさの賛意としてむしろ心地良かった。かつて私の夫であった彼の死後、私は幾人もの龍族の男を夫としてきた。
その者たちは、初めのうちは決まって私の美しさを褒め讃えた。しかし、暮らしていくうちに、ある者は離縁を申し出、ある者は私に寄り付かなくなり、またある者は私より戦を好むようになった。
最後に私の元を去った男が言った。
「初めはお前を美しいと思っていた。お前も美しく在るように振舞っていた。今は違う。お前の振る舞いは俺を疲れさせる。お前は醜い」
以来、私に言い寄る男はいなくなり、私も同じように男を寄せ付けることをしなくなった。私は最後に夫であった男の別れ際の言葉を忘れていた。何故なら、私も同じようにこの男に倦んでいたからだ。だから気にも留めなかった。しかし、今は心に引っかかるものがある。
私は何故かつて夫であった男達に醜いと思われていたのだろう。私は私が望むことを男達にしなかった。私はその男達に気遣いをしなかった。優しい言葉をかけなかった。愛していると囁かなかった。
私は彼らを愛さなかった。
私が欲したのは愛されることであり、愛することではなかった。私が満たされる為だけに彼らに愛を囁いた。その事は、きっと男達にも伝わっていたのだろう。だから私から離れていった。私は私の世界を満たす事に専念していた。その姿はみすぼらしく、卑しく映ったことだろう。
私は醜い。

彼の方を伺う。夕闇が迫っていることに気がつく。彼はこのまま瞑想を続けるつもりなのだろうか。闇の中で彼が言葉を発するとは、少し思い難い。少なくとも明け方までは、このまま瞑想を続けるだろう。私がまだ彼の伴侶であるならば、このまま岩の上まで飛び乗り、彼の体を抱え上げて下草の上に横たえてあげたいと思う。しかし、それは出来ないことは判っている。それは彼の意思とは反することだろう。彼の拒絶は心の底から避けたいと思う。それでも、彼に侍る者の誰かが、彼の身を案じてくれれば良いと願わずに居られない。
聴衆のうちの幾人かが、あちらこちらに即席の竈を作り火を焚き始める。今日はもう彼が言葉を発することはないと判断したのだろう。竈に鍋をかけ托鉢で捧げられた食物に火を通し始める。全ての人が食事の準備を始めないのは、彼らのうちに食事の準備をする役割の人が自然と出来上がっているのだろう。皆に等しく食物の入った鉢を配っている。
炊事のための熾火と立ち上る煙を眺めるのは、暖かく、同時に少し哀しい気持ちにさせられる。
彼の前にも鉢が置かれる。そのことについて少し安堵するが、彼が鉢の食物に手をつけることはないだろう、との予感もする。
「龍の奥方よ。少しお話を――宜しいか?」
闇の中から声がする。まだ太陽の燭光が残っていると思っていた。深まりつつ有る闇に目が慣れなかったのだろう。その者が近づくまで気がつかなかった。声のする方へ注意を向ける。薄暗がりの中でのぼんやりとした姿が次第に輪郭を持ち始める。目鼻立ちまで見て取れるようになると、声の主が誰か判った。サーリプッタだ。
「いかにも、サーリプッタよ。して話とは?」
答えながら思わず身構える。サーリプッタは何しろ頭の切れる男だ。決して巧みな弁舌を弄するというわけではないが、その深い知恵には気後れせずに居られない。
「実はマハーカッサバのことについてなのですが。あれが先ほど奥方と話したおり、口に出してしまったことについて謝罪をしたいと」
私は聞きながら安堵すると同時に疎ましさを感じてしまう。
「何についての謝罪じゃな?」
この聞き方は意地が悪かっただろうか。しかし、マハーカッサバが私に声を掛けた事を後悔してしまった事についての謝罪なら受け入れても良いと思う。彼が虎と鹿という語を出したことについての謝罪なら、その語を二度聞きたいとはあまり思わない。
「マハーカッサバが奥方を前の方に案内しようと申し出た時に、迂闊にも虎と鹿などと口走ったとか。誠に申し訳なく思います」
やはりそちらの方だったか。恥じ入らなければならないのはこちらの方だというのに。その事についてあまり触れて欲しくはないと感じる。
「あれは人一倍思いやりの深い男なのですが、何しろ人の身でありますゆえ。奥方が龍の化身であるところまでは想像の及ぶところではなかったのです」
「いえ、奥方の御勘気はごもっともです。もし尊者と出会う前の私であったら、私と身分の卑しい者たちと同じように並べられたら、やはり奥方のように憤ったでしょう」
「ですから、もし奥方がマハーカッサバに何か感じることがあっても、それはマハーカッサバの不用意な言に責があり、奥方は何ら気にする必要はありません」
私はサーリプッタの印象を改めなければならないと思う。才気があり、智慧もある男だと思っていた。そしてその智慧に頼りすぎ、走り過ぎる男だとも思っていた。サーリプッタの弁舌は、私には理解出来ないことが多かった。だから才気を鼻にかけている男だとも思っていた。
しかし今の彼の言葉はどうだろう。そのような印象は消えてしまった。その思い遣りの深い言葉と、彼の柔和な目により私のわだかまりは霧散した。私はマハーカッサバの謝罪を受け入れる気になる。
「マハーカッサバの謝罪を受け入れましょう」
「ありがとうございます、龍の奥方よ。私からもお詫び申し上げます」
サーリプッタがお辞儀をするのを眺める。サーリプッタにお辞儀をされることが誇らしく、また気恥ずかしく感じる。
「では後ほどマハーカッサバを連れてこちらに参ります」
サーリプッタは私に向かい、三度、四度と深くお辞儀をする。それは彼の行なのだろうか、そんな疑問がぼんやりと浮かぶ。
サーリプッタが立ち去ると、夕闇の気配は消え辺りは暗闇へと変わっていた。とは言え月明かりと星明かりのおかげで闇になれた目には、辺りが存外に明るいように思える。
私の心は落ち着いていた。これはサーリプッタのおかげだろう。彼が私の情動を宥めてくれた。そのような男を、今岩の上で瞑想している彼の他に私は知らない。次に夫を選ぶとすれば、サーリプッタのような男がいいだろう。サーリプッタ自身でも良いかもしれない。龍と人では種族が違うけれども、子供を諦めれば共に暮らしていけるのではないか。そんな夢想をする。
作品名:蓮の池の辺りで 作家名:cajon