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蓮の池の辺りで

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岩の上で結跏趺坐のまま彼が言葉を発しているのを、今私は離れたところから見つめている。私と彼の間は木立と、無数の聴衆で埋め尽くされている。少し前に聴衆の数を数えようと思ったが、三千を超えた辺りで諦めた。
皆彼の言葉を聴こうと、沈黙を保っている。時折咳きの音がするけれども、それも直ぐに静寂な空気の中に消えてゆく。彼の言葉が、静寂の中を隅々まで伝搬してゆく。
彼は動かない。聴衆の数も、彼の心の平安に何の影響も与えていないのだろうか。

彼はかつて竜王であり、私はその伴侶だった。私はかつて彼を愛していた。龍の寿命は長い。私はその長き年月にわたって彼に愛の言葉を囁いたが、彼はついに私を愛していると言ってくれなかった。
やがて、彼は世を去り、転生を重ねて尊者と呼ばれるようになった。彼の噂を聞きつけ、一目しようと山を降りた私だったが、直ぐに彼だと判った。姿形は人の形をとっているが、正しく彼だった。彼の眼差し、彼の纏う空気、彼の発する言葉だった。私は嬉しくなり、彼の足元に進んだ。彼の元にいた聴衆や弟子たちが、私を見るなり後ずさりした。中には私を退けようとした勇敢なものも少しいた。私は、そのようなことは気にしなかった。私は誇り高い龍の王族の娘であったし、何より目の前に彼がいた。彼は私の姿を見留めて言葉を発した。
「よく参られたなプラマシャティーナよ、サカラ竜王の娘よ」
果たして、彼は私の名を覚えていた。彼には転生する前の記憶があった。なんと喜ばしいことか。再び彼に名を呼んでもらえる日が来ようとは。その時、私の胸は喜びと誇りで満ちた。しかし、彼の次の言葉を聞いたとき、それは失望と落胆に変わった。
「プラマシャティーナよ、まだ龍の姿を纏っているのか。そなたは長き年月に渡って私の言葉を聞いたというのに、未だ得心がいかないのか」
彼の言葉は、まるで冷水のようだった。口元と腕が震えるのが判った。彼の失望は同時に私の失望でもあった。
「観照しなさい」
彼はそう言うと、別の者に目を向けた。観照しろ。彼との暮らしの終わり頃には、彼はその言葉しか言わなかった。私は彼がついに私に対して精根尽き果て、愛想を尽かしたのだと思っていた。その言葉は彼が私を避けるために発しているように思われた。自分の心を観て何がわかるというのか。私の情動も、熱もすべて私ではないか。
しかし、今は私を退けるためにその言葉を言ったというのは、少し違うと思っている。確かにある種の諦観を感じていた。彼自身も気がつかない苛立ちのようなものも微かに感じていた。だけど、それは私を疎ましく思っていたからとは、今は思えない。いいえ、思いたくないのかもしれない。

今も木陰から彼の姿を見つめている。彼は数日前から瞑想に入った。彼の言葉を聴きに詰め寄せた聴衆も、今はまばらになっている。何か劇的な事が起こる予感がする。今までも彼が長い禅定をし、瞑想からあけて再び言葉を発すると何かが転回していた。
その事を知っている者たちは彼の元から離れようとしない。托鉢に行くものさえ居ない。その事を知らない者たちは彼の元から離れてゆく。離れてゆくものを責めるものは居ない。
まだ彼は言葉を発しない。

傍らに人が立っているのに気づく。そちらに眼を向ける。ほんの僅か、その人影が身動ぎする。その男の姿には見覚えがある。彼のそばに侍る事を許された者たちの中にその姿があった。名前は確かマハーカッサバ、だった気がする。遠くから眺めていただけだが、彼には常々好感を持っていた。控え目で物腰柔らかく老若男女問わず等しく接することの出来る自制心。才気走って鼻持ちならないサーリプッタや、声の大きく議論に負けん気を発揮するマハーカッチャーナよりは、彼の言葉がよほど身についていると思われた。
その彼が私の姿を見留めて躊躇いの気配をみせる。気づかない振りをしても良いくらいの些細なものだったが、気づいてしまった。
私はかつて美しかった。気高く誇り高かった。
私の体は人のもので、腰から下は龍のものだが、今でも並の女達よりよほど乳房に張りがあると思う。
しかし、マハーカッサバは私の姿を見てたじろぐ。彼の弟子たちが、竜王の娘といった地位や権威に全く動じないことは、とうに判っていた。ならば、私は醜いのだろうか。少なくともマハーカッサバと彼の眷属には私は美しいと思われていないようだった。私は自分でも些か過ぎると思われるほどの愛想を込めてマハーカッサバに話しかける。
「マハーカッサバよ、尊者の弟子よ。妾になに用じゃな」
マハーカッサバは、私の微笑の意味を理解しただろうか。しかし彼は私の愛想などまるで気にも留めることなく私に返答する。
「龍の奥方よ。その木陰からでは尊者のお顔も良くご覧になれますまい。私がもう少し前の方に案内いたしましょう。柔らかな下草の生えている所を選びましょう」
マハーカッサバの言葉に甘えようか、少しの間逡巡する。私を醜いと思う人々の間に入って、私は居心地よく過ごせるだろうか。
「しかしマハーカッサバよ、妾の姿を快く思わない人々もいるのではないか?」
こう話した直後、彼の言葉に甘えようと決める。少し、誰かの優しさに飢えていたのかもしれない。
「聴衆は人だけとは限りません。虎や鹿なども混じって聴いております。奥方もどうか」
「いいえ結構。妾はここにおりまする」
マハーカッサバは奇妙な表情を浮かべ、少しの間立ちすくんでから、私の目の前から去った。
何故、私は束の間激情にかられ、マハーカッサバの言葉を拒否してしまったのだろう。彼の言葉の何に反応してしまったのだろう。マハーカッサバの言葉を思い返す。何度も思い返し、マハーカッサバが本当になんと言ったのかよくわからなくなった頃、「虎や鹿など」の語に思い至る。虎や鹿と同列に扱われたことに怒りを感じてしまった。何方かというと、虎よりは鹿の方だったろう。しかし、両者を天秤にかけてもあまり意味が無い様にも思われる。何故こんなにも容易く激情にかられるのか、自分のことながら情けなく思う。傷つけるつもりのない人を傷つけてしまった。
心を鎮めるために彼の方を見遣る。未だ瞑想に入ったままだ。彼を暫く見つめ落ち着くと、先程のマハーカッサバの顔が思い浮ぶ。先程の表情は彼の悔恨の現れだった事に気がついた。

マハーカッサバのために、なにより私自身のために、私は私の激情を突き止めなければならないと感じた。私が虎や鹿と比べられたと感じたのは、マハーカッサバの言動というより私の中にそのように思う心があるのだろう。彼は確かに私と獣達を比べなかった。彼は人と姿が異なるものも同じように待ち続けている、と言いたかっただけなのだ。
私はマハーカッサバの言葉に囚われ過ぎてしまった。マハーカッサバが発した言葉の字義通り受け取ればよかったのに。そうはせず、激情に駆られた。
何故なら、虎や鹿と並べられたから。比べられなかったにしろ、並べられた。そして獣は人より劣る。私は人より劣るのは我慢がならない。私は誇り高い龍族の王の娘なのだから。
果たしてそうだろうか?
疑問の声が、私の中に反響する。しかし、一方で、私自身が叫んでいた。私は誇り高く美しい。美しくあらねばならない。
――美しくあらねばならない――
作品名:蓮の池の辺りで 作家名:cajon