愛を抱いて 3
そう云うと彼女はグラスに口をつけ、今度は味を確かめる様にゆっくり少しだけ飲んだ。
「やっぱり、しょっぱいわ。」
彼女は眉を寄せた。
「酷いなフー子ちゃん。
俺の作った酒を、そんな嫌な顔して飲む事ないじゃない。」
「そうじゃないのよ。
何か味が変なの。」
「どうせ俺が作ったから、変な味なんだろう。」
「違うってば。
もう。
飲めば好いんでしょ。」
彼女はごくごくと水割を飲み込んだ。
「やっぱり変よ。
塩が入ってるみたい…。」
「どうしたのよ?」
香織がフー子に訊いた。
「これ飲んでみて…。」
フー子は香織に自分のグラスを渡そうとした。
「わかったよ。
作り替えればいいんだろ。」
私は素早くフー子の手からグラスを取り上げた。
「あなた、何か変な事したんじゃないの?」
香織が私を見た。
「何もしてないよ。」
「お酒に変な物混ぜたんでしょ?」
「とんでもない。
フー子ちゃん、きっと酔って味が判らなくなったのさ。」
「あら、私酔ってもウィスキーをしょっぱいなんて思った事ないわよ。」
フー子が云った。
しばらくすると、フー子は立ち上がれなくなった。
彼女は座ったまま香織に背中を摩ってもらいながら、ナイロン袋の中に戻した。
「どうしたんだよ、フー子ちゃん。
しっかりしろよ。」
ドロが嬉しそうに云った。
「フー子。
大丈夫?」
香織が問いかけたが、彼女は何も喋れない様子だった。
「あれっ?
フー子ちゃんどうしたの?
駄目だよ、眠っちゃあ。」
急にヒロシが眼を覚して云った。
「これ、何?」
世樹子がフー子のグラスを電燈にかざした。
グラスの縁に食塩の粒が、沢山ついていた。
フー子は随分苦しそうに眼を閉じていた。
私の部屋に布団を敷き、そこへ彼女を運び込んだ。
彼女は何度も、香織の差し出す新聞紙を敷いた洗面器の中へ吐いた。
世樹子が絞ったばかりのタオルで、顔を拭いてやった。
香織はフー子の下着のフォックを外してやりかけて、私と三人の男の方を視た。
「あなた達、もうあっちへ行ってれば?」
「ああ…、そうだな。
じゃあ、手伝う事があったら呼んでね。」
そう云って我々は柳沢の部屋に戻り、再び飲み始めた。
フー子を寝かしつけてから、香織と世樹子も戻って来た。
朝まで宴会は続いた。
午前7時頃、香織と世樹子は授業があるからと云って帰って行った。
ドロとヒロシはすでに鼾をかいていた。
私と柳沢ももう寝ようという事になり、私は自分の部屋へ行った。
フー子はまだよく眠っていた。
私は座って煙草に火を点け、彼女の寝顔を視ていた。
人の気配を感じたらしく、彼女は眼を覚ました。
「気分はどう?」
私は訊いた。
「ああ…、鉄兵君…。
御免なさいね…。
私、悪酔いしちゃったみたい…。」
「いや、謝るのは俺の方さ。」
彼女は起き上がろうとして止め、布団の中に入って自分の下着を直した。
少し恥かしそうに立ち上がると、もっと休んで行くよう告げる私に、彼女は「ありがとう。でも学校へ行かなくちゃ。」と云った。
フラフラしながらドアまで歩いて、彼女は私を振り返った。
「本当に御免なさいね。
お詫びに今度カットしてあげる。
良かったらだけど。」
覚束ない足取りで帰って行く彼女を、私は窓から見送った。
〈五、塩入りウィスキー事件〉
6.三栄荘の刺激
「ねえ、私って子供っぽいかしら?」
美穂が云った。
「どうかな…。
胸はまあ一人前だったけど…。」
5月最後の日曜日、私は美穂と吉祥寺の井の頭公園にいた。
「私が訊いてるのは精神的な事よ。」
「『吉祥寺クリニック』が近くにあるぜ。」
私はオールを漕ぐ手を止めた。
「鉄兵は脳天気ね。」
「そんな事はない。
いつも、人はいかに生きるべきかを考えてる。」
「友達を視てるとね…、私よりずっと深い思考をしている様に思えるの。
神経質な娘なんかはきっと、私の事何も考えてない人間だと思ってるわ。
…鉄兵も案外神経質そうな感じね。」
「自分を神経質だと思わない人間なんていないよ。」
ボートを下りて公園の中をブラブラ歩いた。
「淳一、怒ってたぜ。」
「ああ。
千絵ちゃんの事ね。」
「何か、彼女は変だったな。」
「私には何も云ってくれなかったわ。」
「躁鬱の気があるんじゃないの?」
「違うと思う。
あんな事初めてよ。」
西武池袋線の東長崎にある彼女のアパートへ彼女を送って行った時、周りの家々には明りが灯っていた。
「珈琲煎れるから、上がって行って。」
私は云われるままに、彼女の部屋へ入った。
美穂と私はカーペットの上に並んで座り、ベッドに背中を縋らせていた。
テレビがついていたが、彼女はその内容に全く関心がない様だった。
「鉄兵はキスした事あるの?」
「男とした事はない。」
「…。」
「君はあるのかい?」
「どちらともした事ないわ。」
「『誰が為に鐘は鳴る』っていう映画を知ってる?」
「知らない。」
「映画の中でイングリッド・バーグマンがさ、男性と初めてキスをした後『鼻は邪魔にならないのね。』って云うんだ。
彼女はずっと、キスする時には鼻が邪魔になるだろうと思ってたのさ。」
「鉄兵も邪魔にならなかった?」
「外人は鼻が高いからな。
特にバーグマンは…。」
「私の場合は気にする必要ないって云いたいんでしょう。」
「男が右側に女が左側にいてキスする場合、男は女に対して右斜めに頭を傾けた方が好いんだ。」
「どうして?」
「普通男が女より背が高いから、その方が絵が好いのさ。」
「ベテランなのね。
私にはよく解らないわ。」
「唇の重なった部分がよく視えて、舌が入ってるかどうか判る。」
「…。」
「ねえ、試しに実践してみようか?」
「キスの実践?
…好いわよ。
でも舌は入れないでね。」
彼女は眼を閉じた。
彼女の唇は乾いていて、少しかさかさした。
キスした事がないと云うのは、本当かも知れないと私は思った。
随分長い時間、二人は唇を重ね合わせていた。
やっと口付けを終えた時、彼女は小さな声で云った。
「…舌は入れないでって云ったのに…。」
彼女の頬は、その唇と同じ色に染まっていた。
しばらく黙ってテレビを視てから、彼女は云った。
「もう一度実践をしてよ。」
「さっきのはNGかい?」
「いいえ。
とても上手だったわ…。」
二人は再び唇を重ねた。
そして彼女はゆっくり身体を倒していった。
4人の女を連れて、私は中野駅北口の改札を出た。
我々はサンモール街を少し歩いて、左手の路地を入った。
「ここだよ。」
私は「クラシック」と描かれた看板を指した。
老舗であるその喫茶店は、本当にクラシックな店構えをしていた。
店の中は非常に暗く、入ってしばらくは何も視えない程だった。
入口で注文を云ってから、我々は手探りで階段を上がり、低い天井と足元に気をつけながら席に着いた。