愛を抱いて 3
すぐに水が運ばれて来た。
水の入っているコップは「ワンカップ大関」の空き瓶であった。
「まあ、本当なのね。」
美穂はそのコップを手に取って笑った。
「ちょっと、凄い店ね…。」
千絵が云った。
私も改めて店内を眺めた。
屋根裏部屋の様な処に不規則に狭い間隔で、テーブルと椅子が設置されていた。
1階にある恐ろしく大きなスピーカーからは、クラシック音楽だけがずっと流れていた。
「何か出そうじゃない…?
私怖くて一人じゃ来れない。」
首をすくめて真美が云った。
やがて珈琲が運ばれて来た。
珈琲には別に変わった所はなかったが、ミルクの入れ物がマヨネーズの蓋であった。
この店に来る客は、ベレー帽を被ったり画板を提げたりした、画家あるいは美術学校の学生風の人間が多かった。
「和代ちゃんは、何のサークルに入ってるの?」
私はその日初めて逢った、その女に訊いた。
「『舞台装置研究会』。」
「へえ。
何するの?」
「コンサートなんかの舞台装置や演出を考えるのよ。」
「照明屋さんか。」
「そう。
照明が主な仕事ね。」
「PAの操作は?」
「それは真美の『アナウンス研究会』がやるの。」
「クラシック」を出て、我々は三栄荘へ向かった。
早稲田通りを渡って、随分陽が長くなった夕暮れの舗道を歩いた。
「それ、いったい何が入ってるの?」
真美が持っている大きな紙袋について、私は尋ねた。
「何だと思う?」
真美は笑いながら云った。
「ポテトチップスよ。」
美穂が云った。
「こんな大きなのが…?
全部そうなのかい?」
「そうよ。
ほら。」
真美は紙袋の一部分を破いて、中身を見せた。
「大学の近くの店で売ってるのよ。」
「恥かしいから、今日は買って行くの止めなさいって云ったのに、真美ったら…。」
千絵が云った。
「あら、これ好いじゃない。
沢山入ってて…。
自分もよく買うくせに…。」
真美はその紙袋を両手で胸の前に抱えて歩いた。
6月に入って最初の金曜日、三栄荘では私の大学の知り合いの女と、柳沢の大学のクラスの男で、合コン風の宴会が催される事になっていた。
「まだなの…?」
美穂が歩き疲れた様子を示した。
三栄荘は沼袋駅からは歩いて五分程だったが、中野駅からは少し遠かった。
「さあ、着いたぜ。」
私は門を潜ったが、彼女達がついて来ないので再び外へ出た。
女達は路の上にしゃがみ込んでいた。
「嘘でしょう?
何?
これ!」
美穂が悲鳴をあげた。
「凄まじいわね…。」
千絵が溜息を吐いた。
「鉄兵君、かわいそう!」
真美が涙ぐんだ。
「好いアパートだろう?
アンティークで…。」
私は仕方なく云った。
「クラシック」へ寄って、少しでも彼女達の眼を刺激に慣れさせようとした、私の作戦は功を奏さなかった。
「早く入れよ。」
彼女等のリアクションがあまりに大きかったので、私はややショックを感じ強い口調で云った。
「腰が抜けたわ…。」
「乾杯!」
全員でグラスを合わせて、いつもの様に宴会は始まった。
いつもの様に、柳沢は乾杯の瞬間自分のグラスを割った。
「アナウンス研究会なの?
俺、将来は放送関係への就職を志望してるんだ。」
真美に向かって、横尾が云った。
彼が放送関係志望というのは、初耳だった。
「夜はそっちの方の専門学校へ行ってるんだ。」
「へえ…、大変ね。」
これ以上聴いてると疲れそうなので、私は和代に話しかけた。
「君も腰が抜ける程びっくりしたかい?」
「ううん。
でも少し驚いたわ。」
彼女は、悲惨な大妻女子短大との合コンで逢ったヨーロピアンの女に、雰囲気が似ていた。
「この辺は綺麗な住宅やマンションばかりだから、この建物は目立つのよ。」
横尾と真美は意気投合した様子で喋っていた。
「私は好きになれそうよ。
このアパート…。」
「三月に入学の手続きで一度東京に来た時、時間がなくてさ、一応仮の住まいという事で、ここに決めたんだ。
4月中に好い処を捜して、引っ越すつもりだったんだけど…。」
「住めば都ってわけね。」
奥田は美穂が気に入ったらしかったが、彼女に水割を勧められて困っていた。
彼は全く酒の呑めない体質だった。
「私、ここの近くに住んでるのよ。」
和代は云った。
「えっ、本当?
中野駅の辺かい?」
「ううん。
沼袋…。」
「そいつは素晴らしい。」
「線路の北側なの。」
「『赤いサクランボ』…。」
「帰りによく寄るわ。
あそこのケーキ美味しいのよ。」
自然、柳沢は千絵と会話をしていた。
和代はかなり呑めるらしく、水割をすぐにお代りした。
〈六、三栄荘の刺激〉