愛を抱いて 1
路端に人影らしきものが見えた。
近づくと、若い女がしゃがみ込んで泣いていた。
我々は、黙って通り過ぎた。
しばらく歩いてから、私は云った。
「やはり、こんな真夜中に一人で泣いている女の子を見て、声をかけないというのは間違っている。」
「そうだな。」
と柳沢が云い、我々は引き返そうとして振り返った。
しかし、もう女の姿はなかった。
どうやら、道に迷った様であった。
久保田香織と別れてから、30分以上は歩いている。
住宅の屋根の上に見える「中野サン・プラザ」を指して、私は云った。
「サン・プラがあっちに見えるって事は、北へ行けば良いのだから、この方向へ歩いて行けば、西武新宿線に突き当たるはずだ。
そしたら線路沿いに東へ歩いて、沼袋の駅へ出れば良い。」
我々は、北であると思う方向へ歩き続けた。
しかし、路が真っすぐでなく、真北に向かっているなと思うと、すぐカーブしてしまう。
四つ角に出た。
「きっと、こっちだ。」
私が云い、その方へ歩いた。
少し行くと、路は右へ曲がっていた。
更に行くと、また右に曲がった。
その先で、もう一度右へ曲がり、先の四つ角に出た。
我々は、深夜の街を歩き続けた。
どこまで歩いても、西武線には出れなかった。
疾うに、足は棒になっていた。
柳沢は座りこんでしまった。
「俺、もう疲れちゃったよ。
このまま、ここで寝ちまおうぜ。」
「東京へ来たばかりで、それは悲惨だよ。
きっと、もうすぐ西武線に出れるさ。」
我々は彷徨い続けた。
意識が鈍って、自分が今歩いているのか止まっているのか判らなくなりかけた時、目前に高架橋が現れた。
「あれだ!
あれは、きっと線路だ。」
私は叫んだ。
その時、電車がやって来た。
「やった!」
我々は、元気を取り戻した。
「まだ電車が走ってるって事は、そんなに長い時間迷ってたわけでもないんだ。」
我々は、希望の電車を見送った。
「あれっ…?」
突然、柳沢が変な声を出した。
「今の電車、何色だった?」
「あっ…。」
私は、言葉を呑んだ。
電車は、オレンジ色をしていた。
西武線の車輌は、確か黄色であった。
「うわあっ…!」
二人は、同時に叫び声を上げた。
何と、すぐ前に、「中野サン・プラザ」がそびえ立っていた。
我々が見送ったのは、始発の国電であった。
どこをどう歩いたのか定かでないが、我々は堂々巡りを繰り返しながら、少しずつ南へ歩いていたのだ。
中野駅へ出て、足を引きずりながら三栄荘へ帰った。
「この前、帰り道が解らなくなって、3時間も歩き廻ったんだって?」
ケラケラ笑いながら、香織が云った。
私は、蕎麦を口へ運びながら頷いた。
「だから云ったじゃないの、迷っても知らないよって。」
「俺は別に、送って行きたかったわけじゃないぜ。」
香織は、笑うのを止めた。
「御免なさい。
私のせいだわね。」
「いや、君が悪いんじゃない。
あれは、中野に住む古ギツネの仕業さ。」
彼女は、また笑った。
「本当にいるぜ。
キツネは…。
若い女に化けるのが上手いんだ。」
「まさか…。」
彼女は、体を折って笑った。
「香織ちゃん、勤務中ですわよ。」
白い三角巾をした、香織と同じアルバイトらしい女が声をかけた。
「あ、紹介するわね。
こちら、柳沢君の隣人の鉄兵君。
こっちは、東世樹子さん。」
「どうも初めまして、東です。
…。」
その女は、指で香織をつつきながら、小声で何か云った。
「もう!
ちょっと…。」
小さく叫ぶと、香織は彼女の腕を引っ張って、店の奥へ連れて行った。
香織は、同じ高校出身の東世樹子と、アパートで共同生活をしていた。
二人は、同じ専門学校にも通っていた。
また、一緒にアルバイトをしようと捜したが、中野にはあまり良いのがなくて、仕方なく蕎麦屋の店員に決めたのだそうだ。
「高月庵」という名のその蕎麦屋は、中野駅北口のすぐ前にあった。
「柳沢君、群馬へ帰ったの?」
再び、香織がやって来て云った。
「うん、昨日帰った。」
ゴールデン・ウィーク前に、柳沢は早々と帰省していた。
「どうして?
もうホームシック…?」
「さあ…?
逢いたい『ひと』が、いるんじゃない?」
「ああ…、そっか…。」
狸蕎麦の汁を飲み干して、私は煙草をくわえた。
ライターで火を点けてくれながら、彼女は云った。
「彼が帰ってしまって、淋しい?」
「うん、淋しい。
特に、夜になると辛い…。」
「私が慰めてあげようか?」
「うん、慰めてあげて…。」
〈一、中野放浪事件〉
2.手料理
夕闇が迫る時刻に、私は中野駅北口に立っていた。
約束通り、香織はやって来た。
「待った?」
「うん。」
「えっ…、どれくらい…?」
彼女は、驚いた様に腕時計を見た。
「『久保田香織』という女を待った。」
「何?
それ…。」
「高月庵」へ行った時、私と彼女は池袋サンシャインへ夜景を見に行く約束をした。
新宿で山手線に乗り換え、池袋に着いた。
緩やかな坂路を歩いて、サンシャインに入り、結構高い入場料を払って最上階直通のエレベーターに乗った。
靄のない晴れた夜で、景色はよく見えた。
道路上に無数に繋がった自動車のライトが、地上の「天の川」を想わせた。
「上から観ると、東京も綺麗ね…。」
と、彼女は云った。
サンシャインを出ると、香織はやけにゆっくり歩いた。
「ねえ…。」
彼女は、前を向いたまま喋った。
「ねえ、鉄兵君…。」
「何?」
「もし、私が…あなたの事、…好きだって云ったら、どうする?」
少し驚くと同時に、私は「来たな…。」と思った。
初めて逢った時、彼女が私に対して少なからぬ好意を抱いた事は、感じていた。
柳沢の気持ちを知っている私としては、すぐに断わろうと考えた。
私は黙っていた。
「あ、御免なさい。
迷惑だわよね…。」
香織は慌てた口調で云って、苦笑いをした。
私はなお、黙って歩いた。
香織はずっと下を向いたままで、表情は判らなかった。
電車の中で、私は考えた。
彼女を傷つけぬ様に、「ノー」の返事をする事は簡単であった。
問題は、別にあった。
東京に来てまだ日の浅い私にとって、女の知り合いは貴重だった。
理想的なのは、柳沢と彼女が恋人として付き合い、彼女の女友達を私が物色して行く、という形であった。
しかし彼女は、柳沢には全く恋愛感情を持ち合わせてない様子だった。
(彼女をフッた場合、隣に俺が住んでいる以上、彼女は柳沢に逢う事を避けるだろう。
少なくとも、一時的に彼女と柳沢は、疎遠になるに違いない。
そうなれば、彼女の女友達と知り合える可能性は皆無になる。
柳沢は、いったい…。)
私は結論した。
二人とも黙りこんだまま、中野駅の改札を出た。
サンプラの前に差しかかった時、香織が口を開いた。
「あなたには、すまないけど…、はっきり返事を聴かせてくれないかな?