愛を抱いて 1
すっきりしたいの。」
「俺も、君が好きだ。」
香織は立ち止まった。
続いて私も足を止め、振り向いて彼女の眼を見つめながら、もう一度云った。
「初めて逢った時に、君を好きになってた。」
我慢できなくなった様に、彼女は泣き出した。
「でも、ずいぶん意地悪なのね。
ずっと黙ってるなんて…。」
カップの中のレモンをスプーンで取り出しながら、香織が云った。
「だってさ、東京に来ていきなり相思相愛になれるなんて、信じられなかったんだよ。
ラッキーチャンスを大事に思うあまり、すぐに言葉が出て来なくって…。
かっこ良い台詞を一生懸命考えてたんだぜ。」
「かっこ良かったわよ。」
笑いながら、彼女は云った。
「本当かい?
怪しいな。」
「本当よ。
…本当に、嬉しかったわ。」
5月2日から、私は大阪の友人の処へ遊びに行った。
予定より2日遅れて、7日に東京に戻った。
8日には、大学のサークルの新歓コンパがあった。
9日は疲れと二日酔いで、昼過ぎまで寝ていた。
まだ頭痛がしたが、香織に逢うため、私は部屋を出た。
彼女と池袋へ行った帰りに立ち寄った、「赤いランプ」という早稲田通りにある喫茶店で、待ち合わせていた。
香織は一番奥の席で、紅茶を飲んでいた。
「ポートピアは楽しかった?」
「…痛い。」
「どうしたの?」
「…頭が…痛い。
昨日、コンパでさあ…。」
「何だ。
二日酔いか。」
「神戸は最低だった。
定期と学生証を落とすし…。」
「まあ、失くしちゃったの?」
「一応、落とし物の届出はして置いたけど…」
「学生証失くして、大丈夫なの?」
「さあ…?
心も体もズタズタだ…。」
「酷く痛むのなら、薬飲んだ方が良いわよ。」
私は、水をお代りした。
「疲れてるみたいね。」
「いや、さっきまで寝てたから…。」
「そう。
じゃ、お腹空いたでしょう?」
「うぅん…。
まだ食べたくない。」
「あなた痩せてるから、しっかり食べなきゃ…。
毎日、ちゃんと食べてる?」
「俺、現代では貴重な栄養失調なんだ。」
「‥…。」
「外食ばかりで、しかもろくな物食べてないんだよね。」
「‥…。」
「今日は土曜日か…。
土曜の夜になると、想い出すんだよね。
オフクロの温かい手料理…。
手料理かぁ…、いいなあ…。」
「…それで?」
「え?
別にそれだけさ。」
「何か云いたいんでしょ?」
「どうして?
でも、手料理はいいよね。」
「そうね。
お母さんに作り方を教えてもらっとけば良かったのにね。」
「‥…。」
「今からでも、手紙に作り方を書いて送ってもらえば?」
「…君って案外、冷たい女だったんだね。」
「そうかしら?」
「ああ…、頭が痛い。
心も痛い…。」
「解った、解った。
作ってあげるから泣かないの。」
「本当?」
「でも、あなたのお母さんの様に美味しくはないわよ。
きっと…。」
「冗談じゃない。
オフクロの料理なんて食べたくないよ。
君の手料理が食べたい。」
「最初から、素直にそう云えばいいのよ。」
彼女が「コム・サ・デ・モード」の服を買うのに付き合った後、ブロードウェイの地下にある「西友」へ行った。
「西友」のナイロン袋を下げて、彼女のアパートへ向かった。
飯野荘の階段を上がった処で、 「ちょっと、ここで待ってて。」 と、彼女は云った。
彼女が鍵を開け「ただいま」と云いながら部屋に入ると、「お帰りなさい」と、微かな別の声が聴こえた。
しばらくして、香織が出て来た。
「好いわよ。
どうぞ。」
私が部屋に入ると、 「いらっしゃい、鉄兵君。」 と、世樹子がにこやかに云った。
「どうも…。
食べる物もなく路頭に迷ってた哀れな男です。」
香織はさっそく支度に取りかかっていた。
「香織ちゃんは優しいわねぇ…。」
世樹子が云った。
「俺が無理矢理頼んだんだよ。」
「云っとくけど、味は保証しないわよ。」
台所で背中を向けたまま、香織が云った。
「食えれば文句は云いません。」
「あら、香織ちゃんとっても上手いのよ。
期待しなさい。」
途中から世樹子も手伝い始めたので、私は煙草を吹かしながら一人でテレビを観ていた。
かなり時間が経った後、 「お待たせ…。」 と云って、鳥肉の唐揚げ、ロールキャベツ、サラダ等が運ばれて来た。
「時間かかってしまって、御免なさいね。
私、手際が悪いから。」
香織が云った。
「嘘よ。
香織ちゃん、いつもは凄く手際良いのよ。
今日は特別なの…。」
世樹子が云った。
私はさすがに空腹だったので、すぐパクついた。
「駄目よ、鉄兵君。
もっとゆっくり、よく噛んで、…味わいながら食べなきゃ。
思いやりを…。」
世樹子が、たしなめた。
「…うん、…美味しい。」
私は云った。
「本当?」
香織が不安そうに云った。
「当たり前よ。」
世樹子が云った。
本当に美味しかった。
「鉄兵君、私、オジャマ虫でしょうけど許してね。
他に行く処がないの。」
世樹子が云った。
「いいのよ。
この人、今夜はちゃんと帰るんだから。」
「あら、泊まって行くんじゃないの?」
「まさか。
初めて来た女の部屋に、いきなり泊まってく男なんていないわよ。」
「別に良いんじゃない?
私、何も見ないし、聞かないし、ちゃんと先に寝るから。」
「世樹子。
あんたって娘は、何考えてるの…?」
食事が終わると、二人は私を玩具にして楽しみ始めた。
「勿論、俺、帰るから心配要らないよ。」
私は云った。
「泊まって行きなさいよ。
鉄兵君。
遠慮する事ないわ。
香織ちゃんもほら、何か云ってあげなさい。」
「本人が帰るって云ってんだから、いいんじゃないの?」
「あら、それは可哀相よ。
ねえ、鉄兵君。
私の事は気にしないで、置物か何かだと思って…、どうか泊まって行って頂戴。」
深夜に近づいた頃、私は解りやすい地図を書いてもらって、飯野荘を後にした。
〈二、手料理〉