おいしいミルクのつくりかた
おいしいミルクのつくりかた
不知柿人
トン、トン、トン、トン、トン……
その音は、時を刻む時計のように正確に響いていた。
ミルクは目が覚めた。あたりは真っ暗だ。
トン、トン、トン……。
夢か現実か揺らぐ意識のもとで、ミルクは安物のベッドに横になったまま、天井に向かって垂直に手を伸ばした。無暗にグルグルと両手を振り回していたら、蛍光灯から長く垂れ下がったひもにふれた。けれど一瞬にして、どこかへ行ってしまう。耳障りなトン、トン、トンが続く。
何度か繰り返して、ようやくひもをつかまえて引っ張った。チカチカっと瞬いて蛍光灯がつく。
まぶしい。
部屋の様子がパッと現われた。築20年をとうに過ぎた軽量鉄骨2階建ての1Kの安アパートだ。フローリングもどきの塩ビの床に無造作に置いた机の上には、昨夜勉強で使った参考書やら辞典やらノートやらがページを広げたままで、ノートパソコンもパックリ口を開いている。
枕もとの目覚まし時計が指しているのは午前3時半。
ミルクは私立大学の経済学部1年の男子学生で、今日から始まる前期試験のために、昨夜あわてて勉強していたのだ。でも元来怠けもののミルクは、午前2時には睡魔に負けてベッドに入ってしまった。だからまだ1時間半しか眠っていない。
ミルクは、トン、トン、トンの音に目を向けた。それは薄っぺらな玄関ドアで、誰かがノックでもしているのか、それとも何かが風に揺られてドアに当たってでもいるのか。さほど大きな音ではない。トン、トン、トン、トンと静かに、でも途切れることなく、規則正しく……。
ミルクはあきらめて起き上がった。寝起きのおぼつかない足取りで、よろよろとドアの前に立ち、声を掛けてみる。
「誰か、いるんですか」
ミルクの問いかけに、一瞬トン、トン、トンが途絶えたが、返事はない。
一息おいて、またトン、トン、トンが再開する。どうやら、誰かがいるのはまちがいなさそうだ。とミルクが思ったのと同時に声がした。
「ミルクさんですね」
静かだが、低音で威圧感のある男の声だ。だけどミルクは表札に名前を出していない。なのに声の主は、住人がミルクだと知っている。ミルクは背筋が凍りついた。
「ミルクさん、開けてください」
男はしゃべりながらもトン、トン、トンをやめない。
「ミルクさんでしょ、わかってるんです。何、怪しいものじゃありません、開けてくださいな」
トン、トン、トンに男の低い声が重なって、ミルクは得体の知れない不安に包まれる。
「あなた、どなたですか」
ミルクはたずねた。男はまたノックを止めた。が、一拍置いてまた叩き始める。
「役所から来ました。ちょっとおたずねしたいことがありましてね、開けてください」
ミルクが躊躇(ちゅうちょ)していると、今度は別の男の声がした。
「だからよぉ、そんな甘っちょろい言いかたしてんじゃねぇっつってんだよ、この野郎。こんなときはな、こう言うんだよ、こう。そこで黙って聞いとけ、とんま」ちょっと怒ったようなかん高い声だ。
恐怖が走った。かん高い声が、ドア越しにミルクに発せられる。
「おいミルク、警察だ、開けろ」
警察? どういうことだろう、ミルクは不安になる。また最初の男の声がする。
「開けていただかないと、私どもで開錠しなけりゃならなくなってしまうんですよ。鍵屋さんも同行してますからね。開けようと思えば、すぐにでも開けられるんですよ。観念して、ほら、開けておしまいなさい」
観念? なんのことだ。ミルクはいよいよ状況がつかめなくなった。いったい警察が何の用だ。そもそも本当に警察なのか? 警察を装った犯罪者じゃないか? いや、それにしたって、なんで僕のところに? ミルクには何も心当たりがない。
トン、トン、トン……。
「開けちゃおうよ」とかん高い声が言う。「そうしますか」と、また新たな声が答える。鍵屋だろうか。「うん、仕方ねぇだろ」ドアの向こうでそんな会話があって、かん高い声が「おいミルク~、開けるぞぉ。でもなぁ、おい。自分で開けたほうがおまえのためなんだぞぉ。後々、心証ってものが違ってくるからなぁ。ミルク~、これが最後の忠告だぞぉ。開けろ、開けろぉ~」そう叫んで、ミルクの返事を待っている。
トン、トン、トン……。
ミルクがなおも躊躇していると、「もう待てないよ、開けちゃって」というかん高い声がして、「ハイッ」と鍵屋が返事したかと思うと、ガチャガチャガチャッという音が始まった。薄いドアがカタカタと揺れる。本気で鍵を開けるつもりらしい。
トン、トン、トン、ガチャガチャガチャ、カタカタカタ……
110番をしようかと思った。だけど、ドアの向こうにいるのが警察だとすれば、110番なんてしても、なんの意味もない。
ミルクは心底怖くなって、部屋の奥のカーテンの掛かったサッシ窓を見た。
なんだかわからないが逃げ出そうと思った。ここは2階だけど、窓枠にぶら下がって降りればなんとかなるだろう。
ところが、そんな思いを見透かしたように、最初に話しかけた男の諭すような低音が響く。
「逃げようなんて思っちゃだめですよ。窓の下にも警官がいますからね。逃亡をはかったってなると、ややこしいことになっちまいますよ。さあさあ、ミルクさん、開けてください」
「ちょっと待ってください」とうとうミルクは返事をした。
サッシ窓に近づき、カーテンをそっと開けてみる。下には制服を着た警官が2人、ミルクの部屋の窓を見上げている。その1人と目があって、ミルクはあわててカーテンを閉める。心臓がバクバク鳴り、額から汗が流れ落ちた。まちがいない、警察だ。でも一体なんだって言うんだろう。
ミルクは意を決した。
「わかった、開けますよ。ちょっと待ってください」
するとトン、トン、トン、ガチャガチャガチャ、カタカタカタが一斉に止まった。
突然やってきた静寂のもと、ミルクはロックを解除してドアを開けた。
3人いると思っていたのに、立っていたのは、場違いなほど鮮やかな黄色のスーツに身を包んだ太った中年男1人きりだった。驚いているミルクに、男は黄色のスーツの内ポケットから何やら手帳みたいなものを取り出してチラリと見せた。
「わたくし、パイナップル警察署のココア刑事です」
男は低音の声でそう言うと手帳を仕舞った。よく見えなかったけれど今のは警察手帳だったんだろうかとミルクが戸惑っているうちに、今度は反対側の内ポケットから四つ折りになったA5判のペラペラした1枚の紙切れを取り出して広げて見せた。
「ミルク~、レモン法違反の容疑で逮捕するぞぉ。これは逮捕状だぁぁぁ」
今度はかん高い声で言ってニヤリと笑い、すぐにペラペラの紙を仕舞う。ミルクは、また見損ねる。
「え、何の容疑ですって。てか、あんた、1人で芝居してたのか? いやいや、それより僕が何をしたって言うんですか。今の紙、もう一度見せてくださいよ」
「いやあ、もう見せられないですね。それに、私から容疑の内容についてはなんとも言えません。なんせあなたは、レモン法違反なんだから」ココア刑事が低音の声で言った。
不知柿人
トン、トン、トン、トン、トン……
その音は、時を刻む時計のように正確に響いていた。
ミルクは目が覚めた。あたりは真っ暗だ。
トン、トン、トン……。
夢か現実か揺らぐ意識のもとで、ミルクは安物のベッドに横になったまま、天井に向かって垂直に手を伸ばした。無暗にグルグルと両手を振り回していたら、蛍光灯から長く垂れ下がったひもにふれた。けれど一瞬にして、どこかへ行ってしまう。耳障りなトン、トン、トンが続く。
何度か繰り返して、ようやくひもをつかまえて引っ張った。チカチカっと瞬いて蛍光灯がつく。
まぶしい。
部屋の様子がパッと現われた。築20年をとうに過ぎた軽量鉄骨2階建ての1Kの安アパートだ。フローリングもどきの塩ビの床に無造作に置いた机の上には、昨夜勉強で使った参考書やら辞典やらノートやらがページを広げたままで、ノートパソコンもパックリ口を開いている。
枕もとの目覚まし時計が指しているのは午前3時半。
ミルクは私立大学の経済学部1年の男子学生で、今日から始まる前期試験のために、昨夜あわてて勉強していたのだ。でも元来怠けもののミルクは、午前2時には睡魔に負けてベッドに入ってしまった。だからまだ1時間半しか眠っていない。
ミルクは、トン、トン、トンの音に目を向けた。それは薄っぺらな玄関ドアで、誰かがノックでもしているのか、それとも何かが風に揺られてドアに当たってでもいるのか。さほど大きな音ではない。トン、トン、トン、トンと静かに、でも途切れることなく、規則正しく……。
ミルクはあきらめて起き上がった。寝起きのおぼつかない足取りで、よろよろとドアの前に立ち、声を掛けてみる。
「誰か、いるんですか」
ミルクの問いかけに、一瞬トン、トン、トンが途絶えたが、返事はない。
一息おいて、またトン、トン、トンが再開する。どうやら、誰かがいるのはまちがいなさそうだ。とミルクが思ったのと同時に声がした。
「ミルクさんですね」
静かだが、低音で威圧感のある男の声だ。だけどミルクは表札に名前を出していない。なのに声の主は、住人がミルクだと知っている。ミルクは背筋が凍りついた。
「ミルクさん、開けてください」
男はしゃべりながらもトン、トン、トンをやめない。
「ミルクさんでしょ、わかってるんです。何、怪しいものじゃありません、開けてくださいな」
トン、トン、トンに男の低い声が重なって、ミルクは得体の知れない不安に包まれる。
「あなた、どなたですか」
ミルクはたずねた。男はまたノックを止めた。が、一拍置いてまた叩き始める。
「役所から来ました。ちょっとおたずねしたいことがありましてね、開けてください」
ミルクが躊躇(ちゅうちょ)していると、今度は別の男の声がした。
「だからよぉ、そんな甘っちょろい言いかたしてんじゃねぇっつってんだよ、この野郎。こんなときはな、こう言うんだよ、こう。そこで黙って聞いとけ、とんま」ちょっと怒ったようなかん高い声だ。
恐怖が走った。かん高い声が、ドア越しにミルクに発せられる。
「おいミルク、警察だ、開けろ」
警察? どういうことだろう、ミルクは不安になる。また最初の男の声がする。
「開けていただかないと、私どもで開錠しなけりゃならなくなってしまうんですよ。鍵屋さんも同行してますからね。開けようと思えば、すぐにでも開けられるんですよ。観念して、ほら、開けておしまいなさい」
観念? なんのことだ。ミルクはいよいよ状況がつかめなくなった。いったい警察が何の用だ。そもそも本当に警察なのか? 警察を装った犯罪者じゃないか? いや、それにしたって、なんで僕のところに? ミルクには何も心当たりがない。
トン、トン、トン……。
「開けちゃおうよ」とかん高い声が言う。「そうしますか」と、また新たな声が答える。鍵屋だろうか。「うん、仕方ねぇだろ」ドアの向こうでそんな会話があって、かん高い声が「おいミルク~、開けるぞぉ。でもなぁ、おい。自分で開けたほうがおまえのためなんだぞぉ。後々、心証ってものが違ってくるからなぁ。ミルク~、これが最後の忠告だぞぉ。開けろ、開けろぉ~」そう叫んで、ミルクの返事を待っている。
トン、トン、トン……。
ミルクがなおも躊躇していると、「もう待てないよ、開けちゃって」というかん高い声がして、「ハイッ」と鍵屋が返事したかと思うと、ガチャガチャガチャッという音が始まった。薄いドアがカタカタと揺れる。本気で鍵を開けるつもりらしい。
トン、トン、トン、ガチャガチャガチャ、カタカタカタ……
110番をしようかと思った。だけど、ドアの向こうにいるのが警察だとすれば、110番なんてしても、なんの意味もない。
ミルクは心底怖くなって、部屋の奥のカーテンの掛かったサッシ窓を見た。
なんだかわからないが逃げ出そうと思った。ここは2階だけど、窓枠にぶら下がって降りればなんとかなるだろう。
ところが、そんな思いを見透かしたように、最初に話しかけた男の諭すような低音が響く。
「逃げようなんて思っちゃだめですよ。窓の下にも警官がいますからね。逃亡をはかったってなると、ややこしいことになっちまいますよ。さあさあ、ミルクさん、開けてください」
「ちょっと待ってください」とうとうミルクは返事をした。
サッシ窓に近づき、カーテンをそっと開けてみる。下には制服を着た警官が2人、ミルクの部屋の窓を見上げている。その1人と目があって、ミルクはあわててカーテンを閉める。心臓がバクバク鳴り、額から汗が流れ落ちた。まちがいない、警察だ。でも一体なんだって言うんだろう。
ミルクは意を決した。
「わかった、開けますよ。ちょっと待ってください」
するとトン、トン、トン、ガチャガチャガチャ、カタカタカタが一斉に止まった。
突然やってきた静寂のもと、ミルクはロックを解除してドアを開けた。
3人いると思っていたのに、立っていたのは、場違いなほど鮮やかな黄色のスーツに身を包んだ太った中年男1人きりだった。驚いているミルクに、男は黄色のスーツの内ポケットから何やら手帳みたいなものを取り出してチラリと見せた。
「わたくし、パイナップル警察署のココア刑事です」
男は低音の声でそう言うと手帳を仕舞った。よく見えなかったけれど今のは警察手帳だったんだろうかとミルクが戸惑っているうちに、今度は反対側の内ポケットから四つ折りになったA5判のペラペラした1枚の紙切れを取り出して広げて見せた。
「ミルク~、レモン法違反の容疑で逮捕するぞぉ。これは逮捕状だぁぁぁ」
今度はかん高い声で言ってニヤリと笑い、すぐにペラペラの紙を仕舞う。ミルクは、また見損ねる。
「え、何の容疑ですって。てか、あんた、1人で芝居してたのか? いやいや、それより僕が何をしたって言うんですか。今の紙、もう一度見せてくださいよ」
「いやあ、もう見せられないですね。それに、私から容疑の内容についてはなんとも言えません。なんせあなたは、レモン法違反なんだから」ココア刑事が低音の声で言った。
作品名:おいしいミルクのつくりかた 作家名:不知柿人