音が響きわたる場所 【旧版】
二.俺は名を呼ぶ
メキシコ合衆国ソノラ州。八割以上を砂漠が占め、西側はコルテス海と面している。主な産業は、畜産と鉱業、そしてコルテス海を利用した観光業。
州都エルモシージョから北へ一二〇マイル。ノガレスという国境の街がある。
「おや、旦那。珍しいことで」
朝食を求めて喚く腹を黙らせるために足を踏み入れた店で、店主のトーマスよりも早くに声を掛けてくる人物がいた。
半端な時間のせいか、俺と声の主以外には誰も客がいないようだ。
「紛らわしい真似は止せ、アントニオ」
俺は声を掛けてきた人物の名を呼ぶ。
「へへ、出会いってのは、いつでも偶然の産物なんですぜ。出会えなかったかもしれねぇって考えると、自然と出会いそのものに感謝できる」
「時間と場所を指定しておいて、何が偶然の出会いだ」
アントニオはノガレスの街の情報屋だ。街の外やフェンスの向こうから来た連中に関する情報を取り扱っている。
非合法な仕事をしている以上、外から街を訪れた者に注意を向けるのは当然のことなのだが、来訪者が客かどうかを見極めているってわけじゃない。
俺たちコヨーテは、人間をフェンスの向こう側に送り届けるのが仕事。
仕事にはルールがあり、同業者間には仁義がある。
ルールは三つ。
客を盗らない。客から盗らない。人間以外は運ばない。
第一のルール『客を盗らない』
値引き合戦なんていう馬鹿げた事態に陥らないためのルールだ。稼ぎが過ぎれば、少ない者のところへ回す。尤も、仲介人がバランスを考えて割り振っているため、滅多にそういった事態にはならない。一つの業者に肩入れしていた場合、その業者の摘発と共に失業してしまうため、仲介人は複数の業者とバランスよく付き合う。
第二のルール『客から盗らない』
密入国という性質上、家財道具一式を抱えて行くわけにはいかない。それでも身に着けているものは、本人にとって大きな価値のあるものであり、今後の人生の支えとなる品物だからだ。
第三のルール『人間以外は運ばない』
言ってしまえば、麻薬だ。
メキシコ国境からアメリカ国内へと流れる麻薬は、カリフォルニアが麻薬漬けから抜け出せない要因の一つとなっている。麻薬の流入が増えれば、国境の監視はより厳しいものとなり、仕事にも支障がでる。
来訪者に注意を向けるのは、麻薬を持ち込ませないためだ。もし持ち込まれたことが判明すれば、好きに泳がせて、買った方の人物を叩く。
それが俺のような武闘派の役割ってわけだ。
「また派手に暴れなすったらしいじゃねぇですか」
ルールを破った奴には、それに応じたお仕置きが待っている。第三のルールを破った場合は、最も厳しい罰が与えられる。
「久しぶりだったからかな、加減を間違えたかもしれん」
「旦那はいつも加減を間違えなさるようで」
アントニオが苦笑する気配が伝わってくる。
「なら、いつも通りだ」
トルティーヤの焼けた香りが鼻腔をくすぐり、唾液の分泌を促進させる。
「今日は旦那に仕事を頼みたいんでさぁ」
「いつから仲介を始めた?」
「いえいえ、そんなんじゃありやせん。これが最初で最後でさぁ」
「急ぐのか?」
「できれば」
アントニオは声のトーンを落してそう言った。中々に急を要するらしい。
「朝食の時間ぐらいは欲しい」
「食べ終わる頃に本人を連れてきやすよ」
仕事を引き受ける前には、必ず本人と会って話しをすることにしている。話して気に入らない相手であった場合、幾ら積まれても断ってきた。反対に、気に入った相手には住む場所から仕事の世話までしたことがある。
アントニオは「ごゆっくり」と言い残して店を出た。歳は六十に近いはずだが、足取りは全く年齢を感じさせないしっかりとしたものだ。
アントニオとは四年の付き合いになる。俺がノガレスに来たばかり頃、髄分と世話になっていたものだ。
本来なら俺が敬語で話すべきなのだが、アントニオは俺を旦那と呼んでへつらう。
俺が情報屋としてのアントニオと付き合うようになった以上、そういったけじめは必要不可欠なことらしい。
朝食として俺が注文したものは、鶏肉とサルサをトルティーヤに包んで蒸した、タマーレスというメキシコでは一般的な料理だ。
トルティーヤとは、小麦粉の代わりにすり潰したトウモロコシを使った生地を、薄く円形に引き延ばして焼き上げたパンだ。トウモロコシの色が映えるものなのだが、残念ながら俺はその色を感じることができない。
目を失う前に見たことがないために、思い浮かべることもできないのだ。
今から五年ほど前、軍人だった俺は、派遣された中東における戦闘で負傷した。
なんとか命は取り留めたのだが、両目を失うという大きな代償を払うこととなった。
現在、俺の眼孔には義眼が収められている。
それはただの義眼ではなく、盲人となってしまった俺でも世界の形を知ることが可能になるというとんでもない代物だ。
反響定位という言葉がある。
それについて説明をする際に、蝙蝠と言えば大抵の人間は察しが付く。
蝙蝠は自身が発した超音波の反射によって周囲の状況を把握しているため、暗闇の中を自由に飛び回れる。それがいわゆる動物の反響定位というものだ。
人間の耳で反響の違いを聞き分けることはほぼ不可能とされているが、稀にそういう特殊能力を持った人間もいる。特にハリウッドあたりに多い。
つまり、普通の人間の耳では、蝙蝠のような反響定位は不可能だということだ。
とはいえ、ある程度までならば把握することは可能であるし、反響の具合で物質を判断することも可能だ。
例えば、盲人が持つ白杖は中空で軽いために音が良く響き、杖が当たった物質を判断することができる。石と土では、叩いたときに全く違う音がする。
アメリカでは、白杖の使い方と共に反響定位のトレーニングを推奨している。
反響定位を行うためには、二つの条件がある。
一つは、一定の周波数と音量を持つ音を、断続的に発生させられること。
もう一つは、その反射音を聞き分ける耳を持っていること。これは、反響によって得た情報を頭の中で組み立て、メンタルマップとして組み立てる能力と言い換えてもいい。
一つ目の条件に当てはまるのは、白杖で地面を叩く音などだ。
二つ目の条件であるメンタルマップの作成については、個人の能力に依存する部分が大きく、どうしても不安定になってしまうことが問題として挙げられている。
俺もこの反響定位を利用して周囲の状況を把握しているのだが、厳密には少し違っていて、現時点では世界で俺だけにしか不可能な方法になっている。
一つだけ間違えないで欲しいのは、俺は映画館のスクリーンの中にいる連中が持っているような、特殊な能力を持っているわけじゃないってことだ。
「お待ちどうさま」
トーマスが、タマーレスを無造作に乗せたプラスチック製の皿を突き出した。
「早いな」
俺は驚嘆の声を上げた。なぜなら、注文してから十五分以上待たされるのが、この店のデフォルトだったからだ。
「九時二十五分ぴったりだろ? トーニョがこの時間にこれを出せって」
トーニョというは、アントニオの愛称だ。
作品名:音が響きわたる場所 【旧版】 作家名:村崎右近