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音が響きわたる場所 【旧版】

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 そういえば、俺が注文する前からトルティーヤの焼ける匂いがしていた。
 アントニオが俺に指定してきた時間は九時三十分。俺が店に入ったのは九時二十分だったのだが、早く来ることも見通されていたわけだ。
 どうやら、このタマーレスは五分以内に完食しておかなければならないようだ。
「ビールは?」
「これから仕事なんだ、コーラにしてくれ」
「はいよ」
 俺はズレていたサングラスを正し、カウンターの奥からコーラを開栓する音が聞こえてくる前に、大口を開けて極太のタマーレスにかじりついた。

 アントニオは、九時三十分ぴったりに戻ってきた。
 足音は二人分。一つはアントニオの足音。もう一つの足音は、その大きさと間隔、一歩毎の音量比較から、体重は軽く身長が低い人物であることが窺える。
 俺は瓶に残っていた三分の一程度のコーラを一気に流し込んだ。毎日飲んでいれば、目が見えなくても残量ぐらいは分かるようになる。
「この人がそうなの?」
 耳に飛び込んできたのは、幼い少女の声だった。年齢は十歳前後といったところか。
 メキシコの公用語であるスペイン語を話していることから、恐らくはメキシコ人。
「あぁ、そうだよ」
 アントニオの口調が、いつもの野卑なものから優しげなものへと変わっている。
「そういう趣味があったのか」
「止してくださいよ旦那、子供の前ですぜ」
「悪かった。品のない冗談だった」
「何も言わず、何も聞かず、しばらく旦那のところで預かって頂きたいんでさぁ」
「俺は子守りじゃない」
「旦那にしかできないことなんでやすよ」
 俺は立ったままだった二人に着座を促した。
「ビールってわけにはいかないな。コーラを二人に」
 カウンターの奥から、トーマスの「はいよ」という小声の返事が聞こえた。
「こいつはありがたい。ソニア、お礼を言いなさい」
 名前を呼ばれた少女は、「ありがとうございます」と丁寧に礼の言葉を述べたあと、俺の隣の椅子に腰を下ろした。物怖じせず人見知りしない女の子のようだ。
「ソニア、か。覚えやすくていい。俺好みの名前だ」
 メキシコ人は異常なまでに名前が長い。
 名前の構成は、名が二つ、姓が二つ。姓は両親の姓を一つずつ継承し、ファーストネーム、セカンドネーム、父親の姓、母親の姓、という順番で表記する。セカンドネームをつけない場合もある。
 俺は長ったらしい名前を覚えるのが苦手なのだが、親子三代で名前が同じ、違うのは四つ目の母親の姓だけ、なんてこともあるため、目が見えず相手の顔や風貌で判断できない俺は、フルネームを覚える必要がある。
「お願いできやすか?」
 アントニオは父親のような存在だ。尊敬も信頼もしている。
 そんなアントニオの頼みなのだから、是非とも引き受けて信頼に応えたいところなのだが、生憎と俺は子供が苦手だ。嫌いなんじゃない。苦手なんだ。
「旦那、どうしやした?」
 アントニオの声で我に返った俺は、大きくため息を吐く。
「なんでもない。あぁ、いや。一つ確認したい」
「なんでやしょう?」
「俺に預けるってことは、そういうことなんだな?」
「そういうことでやすよ」
 間違いなく厄介事だ。そして、間違いなく荒事になる。
 この少女には、何かとんでもない秘密があるのだろう。おそらくそれは、ノガレスの誰かに漏れるようなことがあれば、街に居られなくなるような秘密だ。
 少女は余所者で、余所の街で誰かに狙われて、ノガレスまで逃げてきた。
 アントニオには少女を守りたい何らかの理由があって、俺に護衛を頼んできた。
 俺にはアントニオに大きな借りがある。借りを返す絶好の機会ってわけだ。
「わかった」
「恩に着やす」
「トープだ。よろしく」
 俺は右手を差し出す。
「これからしばらくの間、お世話になります」
 それまでただ静かに聞いていた少女の小さな手が、俺の手をそっと握った。