Da.sh Ⅲ
「あれっ、かあさん、出かけるの? 皆揃って、レストランに行く約束は?」
「まあっ、俊ちゃんには言ってなかったのかしら。ごめんなさいね、仕事が入っちゃったのよ」
「そう」
「パパの大学病院の手術室が使えることになってね。ちょうど病室に空きが出来たから、急に。わがままな患者さんでねぇ、早く手術を済ませてくれ、って言われていたの。ご近所の早川さんよ。ベトナムでの仕事、急いでるんですって。それが済んだらすぐに、イスラエルに飛ばなくっちゃって。今取りかかってる仕事は、午前中に一旦切りを付けるからって言うことで、夕方からの手術になっちゃったの。事前の検査もゆっくりとかかっていられないぐらいなのよ。そうそう、パパも手術に立ち会うから、食事会は、また今度だわね。俊ちゃん、楽しみにしていたんでしょ、久し振りだものね、ごめんなさいね。この埋め合わせはなんとかするから。亜樹ちゃんには、学校から帰って来た時に言ったはずだから。亜樹ちゃんは?」
「知らない」
リビングでテレビを見ていた俊介のそばを行き来しては、ひとりで喋り続けながら出かける準備を整えていた母にそっけない返事を送ると、俊介は2階に上がった。
俊介の両親は、外科医である。父は大学病院に勤めている。母は、父が受け継いだ医院で、診察をしている。住まいと医院は同じ町内にあって、徒歩5分程度離れた所にある。
会社の重役が多く住まわっている地域であり、彼らは時間に追われている為、いつも無理を言っては、時間外でもお構いなく診察を依頼してくる。またそれを気軽に引き受ける、両親でもあった。
珍しく塾が休講となっていたこの日の夜は、家族4人が久しぶりに揃うことが分かっていたので、レストランで食事をする手はずが整っていた。
俊介は、家族との外食を喜ぶ年ではなかったが、それでも揃って食事が出来る、めったにない機会を大切にしたかった。
近所に住んでいる早川氏は、会社経営をしている。足の静脈瘤の治療の為に血管を1本抜き取る手術は、空き病室の順番待ち等で3週間後に予定していたのだが、無理を承知で施術を急かされていた。大学病院の病室が空いたことを連絡すると、急いで仕事に片を付けるから今晩手術を頼めないだろうか、と懇願された。それで急遽、午後の診察は勤務医に任せて、母が施術することになったというのである。
母が出かけたすぐ後、俊介がヘルメットを手にして玄関の三和土で靴に足を突っ込んでいた時、お手伝いの幸代が、キッチンから飛び出して来て言った。
「坊ちゃん、お食事、もうすぐ出来ますから、少しお待ちになってください」
それには答えず、玄関扉に手をかけた。いつの間にか階段に座っていた妹の亜樹が、バイクスーツを着た俊介の後ろ姿に声をかけた。
「にぃちゃん、またバイク、飛ばして来るの?」
「ああ」とだけ言って、振り向きもせず家を出た。