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ふたりのキョリ

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 今日はいつになくよく晴れた日だった。グラウンドの方からは野球部だかサッカー部だか、あるいは他の部活だかわからないが威勢のいい掛け声がよく響いてくる。日中よりも少しだけ冷たさを含んだ風に髪が舞う。それを手で押さえながら綾は人気のないオレンジ色の廊下を歩いていた。
 日直の仕事を終え、まだ新しい日誌を担任へ返却したその帰りのことだった。放課後のことなので部活組や受験を控えた三年生の姿は目立つものの、入学したばかりの一年生はあまり見掛けない。まだ勝手知ったるとまではいかないだろうし、皆学外で親睦を深めているのだろうか。私も皆と一緒に帰りたかったな、そう綾は小さく溜め息を吐きながら自販機の前で立ち止まる。
 段々利用することにも慣れてきたそれは紙コップ式のものだ。綾は少し悩んだ後、いつもと同じカフェオレを選んだ。コーヒーはまだ苦くて飲めない。練習というわけではないけれど、毎回カフェオレを選んでは少しずつその味に慣れているところだった。高校生活と同じだ。
 かたん、と紙コップの落ちる音がする。そうして続いて液体が流れ出る音を遠くに聞きながら、綾は昼間の出来事を思い出していた。そう、彼――斉藤一馬に教科書を借りてしまったときのことだ。
 別になんてことはない日常だ。けれど綾にとっては日常ではない、少なからず動揺を伴うものだった。少なくとも一年半近く片思いをして、そうして失恋したばかりだった相手なのだ。多少の気まずさはある。
 けれどそれと同時に胸に込み上がったのは失恋前と何ひとつ変わることのない胸の高鳴りで、どうしてまだそんなこと――完成を告げる高らかな機械音に綾ははっと我に返った。
「……ばかみたい」
「何が?」
 受け取り口からあたたかな紙コップを手にするのと同時に、隣の自販機からがたんと音がする。綾のものよりも一回り大きな手はそこから小さな缶コーヒーを取り出した。その声には聞き覚えがある、でもまさか。恐る恐る顔を上げた綾の視界に飛び込んだのは、つい今し方までその頭を占領していた斉藤一馬その人だった。
「……さ、え、いやあの」
「もう忘れるなよ」
 そうとだけ言って彼はくるりと踵を返した。忘れるなよと言ったのはきっと教科書のことで、ちゃんと私のことを覚えているのか、ぎゅっときつく、そうしてじわりと胸に暖かな色をした痛みが広がっていく。何か言わなきゃ、でも何を?
 綾は一歩踏み出した。ふたりの距離はもちろんその分だけ近付いていく。
「あの!」
「え?」
「あ、さっきは、ありがとうございました!」
 教科書助かりました、そして彼は別にだとか大丈夫だよとか何か返してくれる気がするから、そこからもっと何を話そう。いや、そもそも会話して大丈夫なんだろうか。そんな綾の心配はすぐに杞憂に終わった。
「ばっ……!」
「え――熱っ?!」
 思い切り慌てたような彼の声が廊下に響くのと同時に、手の中のコップがみるみるうちに軽くなる。流れる液体は先程機械から噴出されたときと似たような音を立て、真っ白な床に絶望を広げていった。それをどこかスローモーションのようにゆっくりと捉えていた綾に更なる脅威が襲いかかる。零れ損なったカフェオレだ。それがコップを伝い綾の冷え切った指に纏わり付いた。購入したばかりのそれは異様に熱く、驚いた綾は酷く大きな声でたまらず叫んでしまったのだ。
 しまった、と思うももう遅い。静かな廊下にはその叫び声と紙コップが床へ転がっていく音がただただ響いていた。
「何やってんだよ!」
「だって……え、どうしよう拭かなきゃ!」
「ばかそんなことしてる場合じゃ――」
「お前たち、何やってるんだ!」
 そこからは本当に一瞬の出来事だった。背後から響く大人の怒声に肩を跳ねさせ振り返る暇もなく、綾は手を強く引かれた。床に滴ったカフェオレで足が滑りそうになるもそれを踏み耐えれば腕を引く力は余計に強まり、一歩、更にもう一歩と縺れそうな足を踏み出していく。何が起こっているのか、気付けば綾は彼の背を追い掛けて走っていた。彼に腕を引かれるままに。
 教師の怒号も遠くなっていく。その内にばたばたとふたつの足音だけが廊下を響くようになり、きっと白い廊下には茶色い足跡が点々と残されているのだろう。しかしそれももう気には出来なかった。綾の胸を何かが強く締め付ける。早くなった鼓動は走っているから? さっき指を伝ったカフェオレなんかよりもずっとずっと、胸が熱い。まるで夢のような展開に綾は声すら忘れてしまっていた。
 そうして廊下を駆け抜け階段を落ちるようにしながら下りていき、綾と彼が行き着いたのは一階の階段脇にある小さなスペースだった。あの教師は追ってこない。恐らく汚れた床の処理をしているのだろう、二人は弾む息を整えながら埃っぽいそこへ座り込んだ。
 本当にこの数分で何があったのだろう。確かカフェオレを買って、隣に斉藤君がいて、そしてありがとうって言って私は――事の顛末を思い出した綾が謝ろうとするより早く、彼が笑い出したのだ。
「……ありえない!」
「え?え?」
「だってお前、頭下げたときに一緒にコップ傾けるとかそんな奴初めてだよ!」
「わ、私だって初めてそんなことやったよ……」
「そりゃそうだろ!」
 毎回やってたら神だ、そう彼はおかしそうに笑い続ける。荒れた息も整わないままに笑うものだから結局噎せ込んでしまって、その内笑い声が咳に変わっていった。大丈夫、と綾がその背中に手を伸ばそうとして二人は違和感に気付いた。彼はまだ綾の手を掴んだままだったのだ。
「……ごめん」
「……ううん」
 そう言った彼はぱっと綾の手首から手を離す。触れていた箇所がまだ熱を持っていて、綾はそれをどうすることも出来ないでいた。
「そういえば手、大丈夫?」
「手?」
「さっきカフェオレ掛かってただろ」
「ああ……うん、平気」
「そうか」
 手を見て見るも別段赤くなっているとか水ぶくれになっているとかそういったことはなさそうだった。ただひとつ言うならばべたべたするのがどうにも気になるけれど、こんな面倒事を起こした張本人がそう贅沢も言っていられないだろう。べたつく指を握ったり開いたりしてみせると、ならいいんだ、と彼は言った。
「さて、どうするか」
「え?」
「あれ体育の竹内だろ、絶対顔見られたし」
 絶対怒られるだろ、と彼は大きな溜め息を吐く。竹内とは初老の、絵に描いたような体育教師だ。所が違えばきっと鬼教官とでも呼ばれているだろう程の威圧感がある。それまでは人通りも殆どなかったというのによりによってあの男に見つかってしまうとは。まさに不幸中の不幸、あの顔を思い出すだけで気が滅入った。
「やっぱり逃げないで片付けた方がよかったんじゃ……」
「あんなの誰だって逃げるだろ!」
「確かに、“お前たち何やってるんだ!”だもんね」
 何もしていないと言えばまるっきり嘘であるし、しかしだからといって故意にしたことではない。説明したところで結局説教は始まっていたのだろうし、彼が逃げてしまったのもわからないではなかった。
 そうして二人で納得し合ったところで、あぐらをかいた彼はふと首を傾げて綾を窺う。
「そういえばあのとき何で頭下げてたんだ?」
作品名:ふたりのキョリ 作家名:まつもと