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ふたりのキョリ

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「あ……あの、教科書貸してくれてありがとうって」
「それだけ?!」
「う、うん」
 きょとんとしてあどけない表情を見せる彼はまさに開いた口が塞がらないといったようだった。そんなに驚くことだろうか、綾としてはちゃんと礼を言わなければならないと思ったのだ。それが如何に不純な動機であったか本人が気付いているかは別だけれど。
 やはり迷惑だったか、と綾が焦りを覚え始めた頃、その顔を彼はひょいと覗き込んだ。その表情は綾が心配していたものとはまた別の、例えるならばそうだ――新しいおもちゃを買ってもらった子どものようなそれ。彼の長いとも短いとも言えない髪がすぐ目の前で揺れている。それを見てしまった綾は思わず息を止めた。
「――椎名だっけ」
「……うん」
「面白いな、お前」
「え?」
「教科書貸したり飲み物こぼされたり碌なことないけど、面白い」
 彼にしてみれば一応巻き添えを食らった形なのだ。それだというのに責めるでもなく、むしろ面白いなどと言ってみせる。綾は罵声ならばまだしもまさかそんなことを言われるとは思っておらず、戸惑いをあらわにした。そうでなくとも色々な出来事が目まぐるしくその身を襲うのだ、頭が爆発するというのも今ならわかる気がする。
 だってこんなにすぐ近くで、瞬きの音だって聞こえそうなくらいの距離で、彼が笑っているのだ。
 綾は唇を震わせた。けれど言葉は何も出ない。先程はお礼を言えばいいと思った。なら今は?面白いと言われてそうかなと笑えばいいのか、それとも不満そうにそんなことないよと唇を尖らせればいいのか。友達になら瞬時に選べる選択肢がまるで浮かばない。
 そうこうしている内に彼はすっと立ち上がった。中学の頃、同じように見上げたときよりも顔がずっとずっと上にある。帰るのか、でも確かに帰らなければ、随分と日は落ちてしまった。そうして綾は自分の隣へ手をやるが、ない。朝登校したときには手にしていた筈のものが、ない。
「……さあもう来ないだろ、帰るか。じゃあまたあし――」
「あ」
「ん?」
「鞄、教室だ」
 そう、鞄がなかったのだ。そういえばもう一度取りに来ればいいからと教室に置き去りにしたまま職員室へ行ったように思う。これではそのままこっそり帰ることは叶わない。
 そしてまさかと綾は彼をもう一度見上げる。ものすごい勢いで辺りを見回している彼の手にももちろん鞄はない。代わりにあるといえば先程買っていた缶コーヒーで、少しの沈黙の後に彼はがくりと項垂れた。
「……俺もだよ!」
 やってしまった、と彼は大袈裟な程に溜め息を吐く。ということは恐らくまだ真新しい鞄が二つ、それもきちんと列を守って教室で静かに待っているのだろう。早く迎えに行ってあげなければいけないのに、彼はまたゆっくりとしゃがみ込み、そうして小声でぽつりと呟いた。
「絶対いるよな、あいつ」
「絶対いると思う」
「怒られるよな」
「怒られるよね」
 あいつ、とはあの鬼教師のことだ。顔は割れているのだしきっと教室前にいるに違いない。絶対に戻ってくるだろうと鞄を質にとって――二人の視線がかち合った瞬間お互いふっと笑みを零した。
「しゃあない、行くか!」
「……うん!」

 案の定竹内は教室前にいて、恐る恐るながらも出頭した私達を見るやいなや突然怒鳴りつけた。やはり片付けは赤鬼と見間違えんばかりの体育教師がやってくれたらしく、もう何も出来ない私達は反省文とやらを書かされる羽目になる。今時反省文とか、と小さく零した共犯者はここまで来てもまだ悪びれもない。
 遠くから聞こえる吹奏楽の綺麗な音色も怒声で掻き消える中、綾の心はいつになく落ち着いていた。反省文なんて真面目な私が知ったらきっとどうしようもないほどに怖がってしまうと思うけど、今の私はこの状況を楽しいとすら感じているのだ――教師の言葉に適当に頷く隣の彼を見て、先程掴まれた手首が少しだけ疼いた。

「……ちょっと写させてよ、椎名」
「駄目だよ!自分で書いてよね、……斉藤君」
 翌日の早朝、まだ誰もいない静かな教室でけち、と唇を尖らせる彼。小さな一つの机を半分に分け合って広い原稿用紙を埋めていく二人。こんな風に他愛もない会話をしながら反省文を書いているだなんて、一ヶ月前の自分はきっと信じてさえくれないだろう。
 高校一年生の春、二人の距離は時折シャープペンシルがかつんとぶつかってごめんと小さく呟くばかりの距離だった。
作品名:ふたりのキョリ 作家名:まつもと