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ふたりのキョリ

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「俺は君のことよく知らないし、好きとか言われても困る」
 それは中学卒業の日、彼とのおよそ一年半ぶりの会話は同時に最後の会話となった。一年目にその存在を知り、二年目に恋をして、三年目には好きだと伝えたい気持ちでいっぱいになった綾の中学生活は呆気なく終わりを告げる。
 まだ幼い綾には立ち去る彼を引き止めるだけの愚かさも何もなかった。ただその場で立ち尽くし、彼の最初で最後の言葉を整理しているだけで頭の中が破裂しそうだったのだ。どのくらいそうしていたのかはまるで覚えていないけれど、春のまだ肌寒い風がさっと頬を撫でた瞬間、綾の脆くなった心はいとも簡単に決壊してしまう。苦しい、三年間募らせた想いはたった一度の波にさらわれてもう戻らない――全てが涙と共に流れ落ちた三月のあの日。
 何もかも終わってしまった筈だった。終わってしまった筈だったのに、まさかここから全てが始まるなんてことを誰が想像しただろうか。きっと二人は二度と関わりなく過ごしていく。本当に、その筈だったのに。

 比較的ゆったりとした朝、まだ着慣れない制服に身を包み落ち着かない心地で家を飛び出した。四月の上旬、今日は高校の入学式だ。
 厳かながらも真新しい光の差し込む式だった。しかし見知らぬ広い体育館は沢山人がいるにも拘らず、期待感とは他に孤独感や疎外感までも感じさせる。ぐるりと辺りを見渡せば同じ中学出身の同級生や友人は僅かばかりのようで、益々心細さが湧き上がった。だがそれは或る面で考えるならいいとも思えた。知り合いの少ないここでなら新しい友達を作ったり――新しい恋をしたり、出来るかも知れない。その考えを遮るように過ぎったのは僅か数週間前に見送ったあの背中。
 けれどそれはもう一度、綾の目の前に残酷に現れたのだ。
「斉藤一馬」
「はい」
「椎名綾」
「……はい」
 教室の自分の席に着いて初めて目を奪われた光景は、綺麗な黒板でもなければ年季の入った机でもない。ついこの間砕け散った初恋の人の背中だった。
 何で、どうして――あの日自分を振った彼は斉藤一馬、振られた私は椎名綾。あいうえお順の並びをする出席番号はこんなところで無情なものである。だがそれ以前にこんな偶然があるのだろうか。確かに彼が同じ高校に進学するのは知っていたけれど、九つあるクラスでどうしてこうも奇跡的な再開を果たしてしまったのだろう。心機一転を誓った高校の入学式当日、奇しくも二人はまた一年を同じ教室で過ごすこととなったのだった。
 
 だが彼はどうやら綾のことを覚えてはいないようだった。それはそうだろうか、あのとき彼は自分のことをよく知らないといったのだし、まず印象に残ってなかったのだ。勿論名前も知らないのだろうし――そう考えれば考えるほど空しさに綾の胸は痛んだけれど、事実だろうから仕方がない。彼が後ろを振り向く時はプリントを配る以外に訪れず、そのまま何事もなく二週間が過ぎていった。
 そうして入学から三週間目の月曜のことだった。
「……教科書、忘れた」
 少しずつ仲良くなり始めたクラスメイトとの昼食後、まだ新しい鞄を探ってもそれは出て来ない。五限の英語の教科書が、本来ならばある筈のそこに存在しなかったのだ。
(どうしよう!)
 始業のベルまで後三分ほど、俄かに心臓が痛み出す。もう他所のクラスに借りに行っている暇はないし、先程まで昼休みを共に過ごした友人は席が離れている。それなら隣の人間に見せてもらえばいいのだろうけれど己の引っ込み思案が徒となり、結局言い出せないままに英語の担任が来てしまった。もうこれなら知らぬ存ぜぬでやり過ごすしかない。要は当てられなければいいのだから。
 しかし当てられないようにと大人しくしている様子は伝わってしまうのだろうか。授業開始からちょうど十分経った時、やはりというべきか、その瞬間は訪れた。
「じゃあ次を椎名さん、読んで」
「……え」
 そういえば今日は綾の出席番号と同じ数字の日だった。午前中の授業はそんなことも忘れて過ごせたのに、どうしてここで引っかかってしまったのだろう。まだ若く快活なその女教師は午後の気だるさを吹き飛ばすように綾の名を呼ぶ。だが教科書がない以上どうすることもできない。朗読の素振りも見せずただ口篭る綾を、彼女は教壇から覗き込むようにした。
「あら、教科書ないの?」
「はい……」
「家に持って帰るほどの熱心さが裏目に出ちゃったのね」
 大丈夫よ、と微笑んでみせるその先生は綾の焦りを拭う。だがその次に飛び出した名前に、綾は自分が呼ばれた時以上に動揺してしまった。
「ならそうね――斉藤君」
 それが誰にも気付かれていなければいい。みるみるうちに赤くなる頬もどうかそのまま指名されたせいだと思ってくれていて構わない。不意に顔を上げた目の前の彼を、綾は直視する事が出来なかった。
「はい」
「椎名さんに教科書貸してあげてくれる?」
 彼女にとっては何てことなかったのかもしれない。どうして彼だったのか、特に意識したわけでもないだろう。ただ同じ列に並んでいるふたりの生徒に過ぎないのだから。けれど綾にとっては一刻も早く断ち切ってしまいたい初恋の人で――早まる鼓動に耐え切れず、とうとう俯いてしまった綾の視界にすっと滑り込んできたのは英語の教科書だった。
「ん」
 それはまだ新しく、何も書き込まれていない教科書。前の席から差し出されたその本は、あろうことかこのふたりのいとも簡単に接点を生み出してしまう。恐る恐る顔を上げた先にはやはり綾のことなど覚えてもいないのだろう、彼は何でもなさそうに振り返っていた。
「……あ、りがとう」
 私は、ばかだ。でもきっと誰も知らない。震える手でやっと掴んだ教科書は、触れた指先から全身を巡りこの心まで不思議なあたたかさを伝えた。

 このときはそれで終わりだと思っていた。彼は自分のことなどよく知りもしないと言っていたし恐らく中学のクラスメイトだったことも覚えているかどうか怪しい。そんなものだろう、自分だって話したこともなければ名前以外何も知らないクラスメイトだってたくさんいるのだからと綾は思う。
 けれど人間の縁とはどうにも不思議なもので、いつどこで何があるかなんて誰にもわからない。
作品名:ふたりのキョリ 作家名:まつもと