ドッペルゲンガー
絶対に手を伸ばすことが許されないと思い込んでいた背中に、今ゆるゆると腕を伸ばす。そうしてあたしは彼の腕の中でひたすら涙を流した。怖かった、のだ。そう涙を止めることのできないでいるあたしを、ゼンは予想もしていなかったほど優しく抱き締める。規則正しい鼓動を刻む彼の胸、その中にあたしが溶け込むことはなかったけれど、どうかこのまま溶けてしまいたかった。
今頃こんな滑稽なあたしを見て、“私”は。
「ッみんな、皆いなくなっちゃう……皆、ゼンだって、きっと」
「セン、俺はちゃんとここにいると何度言えば」
「駄目、ゼンは絶対、絶対にいなくなっちゃうの!」
“私”は嗤っているのだろうから。
「“私”は“あたし”からきっとゼンを奪ってしまうから――」
何、とゼンが呟くよりも早いか、何にせよそれは突然の出来事だった。
この頼りない足元を掬うかの如く、酷い揺れが襲ったのだ。ぐらり、と本当にそんな音でも聞こえてきそうなほどの強い揺れは今までに一度だって経験した事がない。強いて言うならばほんの少しの揺れだって、この世界を襲ったことはなかったのに。とにかく全てを崩してしまいそうなほどのその揺れがあたし達を立っていられなくするには十分すぎた。あたしとゼンはすぐ床に倒れこんでしまい、まともな体勢すら碌に保てない。そのうちこの部屋のものが頭上に降りかかってくるのは当然だった。そうして洗面台や棚からの落下物が降り注ぐ中、ゼンはあたしを庇うように覆い被さる。
「ゼン!」
「セン、大丈夫だから大人しく――」
おさまらない揺れにがしゃんと一際大きな音が響き、ゼンに覆われたこの視界にも輝く細かな粒が宙を舞っているのが届いた。鏡が割れたのだ。それは大小様々な欠片となり、こちらへと降り注ぐもののそれを受け止めたのはゼンの背中だった。
何故とそんな事を頭の中で繰り返し呟きながら、また視界が霞んでいくのが分かった。この揺れる世界はあたし達の全く知らない世界だった。
今も“私”が嗤っている。すぐここで嗤っている。
『ねえ、知ってる?』
「――もう、もう止めて!」
『自分のドッペルゲンガーに会うと、死んでしまうんだって』
回りの轟音に掻き消されてもいい、あたしが叫んだ瞬間に今までこの空間を支配していた揺れはすっと身を隠すようにして治まった。床に落下しても尚踊らされているかのように揺れていた沢山の物も、次第にその体を落ち着かせ始める。互いの耳元で鳴り響いていた騒音も、あたしとゼンが息を呑む頃には既に形を顰めていた。
「……おさまった、のか?」
ゼンは警戒を解かずにあたしを覆い隠していた体をゆっくりと起こす。それに釣られて体を起こしたあたしが捉えた光景は、今までに見たことの無いほど酷いものだった。棚は倒れ、そこに置いていた物は全て落下してしまっており、あの洗面台の鏡も跡形もなく砕け散っていた。本当によくこの世界が崩れてしまわなかったものだと今になって背筋の凍る思いを抱く。小刻みに震えるこの手は、いつのまにかゼンのそれに重ねられていた。
嗚呼、とうとう全てが終わってしまうときが来たのだ。
「セン、大丈夫か?」
「……だから言ったじゃない」
「セン……?」
「“私”が“あたし”から全てを奪おうとしているのよ」
最早それ以上でもそれ以下でもない。あたしはただただ呆けた様にそう呟いた。きっとそうなのだ。もうどこに行っても逃げられない。この世界観も何もなくなり、ただ崩れ去るのを待つだけだった。
そして今、耳を澄まさなくとも聞こえる音がある。それは新たな騒音で、がたがたと慌ただしい音がこちらへと近付いてきていた。倒壊しているものたちを酷く乱雑に掻き分けて現れたのは、出て行った筈の弟だった。
この均衡すら保てなくなっていた世界は、たった一つの形によって崩される。そう、あの砂の城とそれを創造した筈の赤いスコップのように、もう元には戻らない。
「無事だったのか!」
「姉ちゃん、ゼン!外が、……外が」
弟が今にも泣き出しそうな表情で戻ってきた。ここへ来る途中に負傷したのかその足には真っ赤な血が滲んでいるが、弟はそんな事を気にも留めていないようだ。それなのにあたしは今弟があたしの事を“姉ちゃん”と呼んだ事に、本当に久しぶりにゼンの名前を呼んだ事に意識を向けている。皮肉なことだった。今からこの世界がなくなってしまうかもしれないという瀬戸際のときに、あの頃を取り戻せた間隔に陥ってしまった。
しかし二人はそれに気付いているのか否か、はたまたそんな状況ではないからか、何かを探るようにしている。それでもゼンは重ねられたあたしの手を振り払うことはしてくれなかった。
「何か知っているのか、外で何があったんだ」
「知ってるとかそんなんじゃないけど……でも、でも変なんだ!」
「落ち着いて、ゆっくりでいいから何があったのか話してくれないか」
「姉ちゃん」
「……え?」
弟が涙を溜めた目でじっとあたしを見据える。それはまるで今の光景を、あたしの存在を疑っているかのような視線だ。その視線に誰が映っているのか、そんなこと怖くて聞けやしなかった。けれど震える弟の唇は、そんなあたしの思いも知らず残酷な現実を突きつける。
「――姉ちゃんが、二人いるんだ」
あたしはその、存在を感じさせるのことのなかった空気がこの喉を詰めた瞬間を忘れることはないだろう。そうしてその瞬間の張り裂けそうな胸の痛みも、触れていたゼンの手の暖かさも忘れることはない。
次の瞬間ゼンは今まで好きにさせていたあたしの手を、恐らく無意識に振り払った。そうして床に散りばめられた破片などもものともせず、今弟が現れた方向へと消えていく。その裸足に傷が走ることも、そこから血が幾筋も流れ出すことも気に留めず駆け出したゼンのその姿。それが一体どういうことなのか、あたしが一番よく分かっている。
ゼンはやはりこんなにずるいずるいあたしのことなど見ていなかったのだ。
「……どうして」
あたしが一体何をしたのか。どうして“私”は全てを奪ってしまおうとするのか。
二人で一つなら、何も何も奪わなくたっていいじゃないか。
足が重い。まるで足枷でも嵌められたかのようなこの足は、あれから部屋を飛び出したゼンの後を追い掛けている。何度縺れたことか、もう覚えていない。それどころかゼンを引き止めるため踏み出した足はたった数歩でもう傷だらけになってしまった。それは彼も同じはずなのに、ゼンは決してその足を止めようとはしない。あたしと彼の後ろには血で染められた砂が広がっていた。
「ッ、ゼン……!」
あたしの息はあの荒れ果てた家を出る頃には既に上がってしまっていた。それはそうか、何せ長い間あの家を出ていなかったのだ。それはゼンも同じなのに、彼はあたしを置いて先を走る。行く先は聞かなくても分かる――あの砂丘だ。