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ドッペルゲンガー

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 そっと開いた目に飛び込んだのは、弟が点け放していった部屋の明かりだった。あれからゼンと一度だけ抱き合い、そのまま眠ってしまっていたらしい。いつもより重いこの目に届く光は少しばかり痛かった。
 体を起こして隣を見れば、ゼンもまたこちらに背を向け眠っていた。シーツから覗く背中はあたしを覆い隠してしまうほど広く、けれど何より遠い。情事の最中には縋ることを許されるその背中にも、今手を伸ばせばきっと彼は飛び起きてだって振り払うに違いない。それはあたしにだけ襲い掛かる、どうしようもない事実だった。
「……ゼン」
 こちらに背を向け眠り続ける彼の吐息は穏やかだった。あたしのこのどす黒い感情も、この二度と晴れることのない気持ちもまるで知ったことではないと言った風だ。勿論それで当然なのだけれど、あたしの胸は何とも身勝手なことで、指も届かないところが酷く痛む。あたしにだけ誂えられた痛みだといっても過言ではないだろう。もういっそこの痛みが広がって、そのままこの息も止まってしまえばいいのに。そんな望んでもいないことを、あたしは望んだ。
 そうして再び眠るには酷すぎる痛みを呼び起こしてしまったため、身を委ねる場所を失った。もう一度、と不毛な行為を強請ろうにもわざわざ彼を起こしてまで身を置く場所を作りたいとも思わない。
 あたしはなるべく音を立てないようにそっとベッドを抜け出した。ぎしり、と少しだけ軋んだスプリングも寝返りは打たせど彼を起こすまでには至らず、あたしは安堵しながらも少し残念に思う。そしてあたしは大き目のゼンのシャツを羽織り、抜け出したせいで乱れてしまったシーツを指でなぞった。そこはまだ温かく確かにあたしがいたことを伝える。そのすぐ近くにゼンの背中もあって、きっと彼にもこの温度を伝えていることだろう。
 彼の寝顔は普段よりも幼くて、あたしの胸はまたずきりと痛んだ。それどころか、ベッドから下り一歩一歩踏み出した足まで痛み始めた。それはまるで歩む道を間違えたことを告げるかのようだった。
 寝室を出て辺りを見渡すが、弟はやはりこの家にはいなかった。また飽きもせず母の元へ行ったのだろう。そこまで執着心を剥き出しに出来る弟が少し羨ましく思うときもある。コップ一杯の水を飲み干し、あたしは洗面所へと向かった。
 明かりを点けるとすぐそこには大きな鏡があり、あたしの醜い顔を余す事無く映し出している。大きなシャツも不恰好だし、泣き腫らした目もあたしの愚かしさを一層引き立てた。無様とはきっとこういうことを言うのだろう。あの頃のように微笑むことなどもう出来はしないのだ。
 そんな自分を見ていられずに蛇口を捻り、徐に顔を洗う。何度も何度も、あの絶対に自分では見ることの出来ないはずの後姿を振り払おうと冷たい水を浴びせた。振り払える筈もないのに、振り払えるならゼンをもっと大事に出来ていた筈なのに――手が、震える。
 水を掬う手が止まり、あたしはゆるゆると顔を上げた。ぽたり、またぽたりと水の落ちる音がする。落下して弾け散るようなその音は、あたしの定まらない呼吸音でいっぱいになったこの部屋にも確かに響く。それが静まるにつれそっと瞼を開けると、睫毛に雫が刺さっているのが見えた。あたしの視界を霞ませるそれは、瞬きをすれば簡単に頬を流れていく。幾度か瞬きを繰り返して見据えた先には、まるで泣いているかのような、唇を噛み締めたままのあたしの顔があった。酷く情けない、それでいてその情けなさを忌み嫌う、一見矛盾したこの表情は恐らく一生このままだろう。目を伏せればまた一つ雫が頬を流れて口元に辿り着く。それは何故かあたしの口の中で甘辛く弾けた。
「いっそ、何も無くなってしまえばいいのよ」
「――それは、過去も今も未来もか?」
 背後から掛けられたその声にあたしははっと我に返った。肩を揺らし目を開ければ、鏡に映ったのは未だ眠っているはずのゼンだった。もしかしたらあたしが気付かなかっただけかもしれないが、音もなく現れたその男はあたしを鏡越しに睨む。壁に凭れ掛かり腕を組んで、それは気怠げながらもあたしを問い詰めるような鋭い声音と眼差しを持っていた。それが嫌で、何より鏡でかち合う瞳同士が堪らなく嫌で、あたしは近くにあったタオルを手に取りこの顔を覆った。
 すぐに全てを優しく覆い隠してくれるこのタオルの下で唇を噛み締めるのも涙を堪えるのも容易い事だ。けれどその全てをあなたが見抜いてしまう方がきっともっと容易い事だった。
「寝ていたんじゃなかったの?」
「お前がいなくなったんだろう」
「……シャワー浴びるなら、あたし出て行くから」
「いつまで逃げるんだ、セン」
 ゼンが背後からタオルで顔を覆い隠しているあたしの手を外す。ゼンは強引ではなかった。そうせずともあたしにはもう抗う気持ちがなかったからだ。タオルはそのままはらりと洗面台へ落ち、みるみるうちに水分を吸収していく。しかしあたしはそれを一瞬確認しただけで、この目は今もまだ鏡越しにあたしを真っ直ぐ見詰めるゼンに奪われたのだ。鏡を通じて互いを映すあたしとゼン――あたしと、ゼン?あたしはそのとき初めて、鏡の向こうにいる自分の唇が弧を描いていたことに気付いた。
 違う。彼は本当に“あたし”を見ているのか?“あたし”は“私”なのだ、もしかすると彼が見ているのはあたしではなく――
 あたしは立ち尽くしていた。段々と涙が込み上げてくる感覚も、とうとうそれが頬を伝っていく感覚もここにある。ただ、怖いと口に出すことが何より怖い。血が流れてしまうほど噛み締めたこの唇を優しく解いたのはゼンの指だった。涙を流させないようにこの視界を遮ったのもゼンの掌だった。
「何をそんなに、たった独りで恐れるんだ」
「……ッ、あたし、は」
「恐れることが悪いと言っているんじゃない」
「だからあたしは何も、恐れてなんか……」
「だが、同じように何かを生む事もないんだ」
 彼の指はあたしの唇に滲んだ血をそっとなぞる。それはきっと紅のように禍々しくこの唇を彩ったことだろう。時折口内に染み入る血液があたしに残酷な味を覚えさせ、覆われた目から何かが一筋零れていく。それは頬を滑り、ゼンの掌をも通り抜け、とうとう顎のラインから滴り落ちた。そうなると最早それは止まる術を持たず、幾筋も幾筋も頬を流れた。あれほど、あれほどこの男の前で泣くものかと思っていたのに。
 ゼンは視界を覆ったままあたしを引き寄せ、背後から抱き締めた。その行為が余りにも優しく、あたしは馬鹿だ、と呟いた。この震える肩を優しく抱き寄せるあなたなんてあたしは知らない。けれどそんな事も知らないあたしがきっと一番馬鹿なのだ。
「……こわい、ッ怖いよ、ゼン」
「――あぁ」
「ッあたし、そんなに無茶なこと、望んでなんか……ないのに」
 あたしはゼンの腕の中で少しもがいた。するとそれに気付いた彼はあたしの体の向きを変え、向かい合う形を取るとまたそのままもう一度強く抱き締めた。強く隙間もなく抱き締められるその心地よさ、またそれに抵抗するように込み上げてくる不安の相反することといったらない。今までに何度も抱き合ったとは言え、ここまで強く抱き締められた記憶など一欠片だって存在しなかった。
作品名:ドッペルゲンガー 作家名:まつもと