ドッペルゲンガー
世界は変わる。
それからというもの、あたしは“私”の存在をはっきりと恐れるようになった。未だ会ったこともなければその存在が確かとも知れぬのに、あたしは恐れた。今ではゼンともあたしとも殆ど口を利かなくなってしまった弟も、あの丘に眠る母も、それらは何も惜しくない。
ただ、彼が――ゼンがいつか“私”に奪われてしまうのではないか。そんな焦燥感にひたすら襲われた。他のものなら何だってあげてもいい。弟を失うことも、母を失ったこともあたしは何も怖くない。けれど、ゼンを失うことだけは違った。
愛しい、のだ。あたしはいつの間にかゼンを誰よりも何よりも愛しいと感じていた自分に気付いてしまった。どうしようもなく幼稚な執着を覚えてしまうほどに、彼が愛しかった。
ゼンが外へ出なくなったのと同じ頃、あたしも外へ出ることは無くなった。弟は未だあの母の眠る丘へと毎日向かうけれど、それを避けるかのようにあたし達は家に篭るようになる。もう子どもでいられる時間は終わったのだ。あたしも、きっとゼンも、自分の中の変化を感じ取ってしまったのだろう。そうなってしまうともうどうしようもなかった。
そしてあれから幾つもの時間が過ぎた今、この家にはやはりあたしとゼンしかいなかった。ただ何をするでもなく所在無さげにベッドの上で転寝を楽しんでいる。子ども部屋にあった三つのベッドのうち二つをくっつけて、広いベッドを転がった。
弟は今この家にはいない。適当に食事を取り家を飛び出してしまった。恐らくまた砂の下で眠る母の元へ行ったのだろう。そうなるともう長い間帰らないのが常だった。けれどあたしにはどうしてそんな時が過ごせるのかわからない。どうしてそんなに無駄とも言えるほどの長い時を独りで過ごすのだろう。いつの間にか時に囚われるようになってしまったあたしには、そんな余裕は無かった。
そんなことなど知る由も無く、ゼンはあたしの隣でいつものように本を読んでいる。この本がどこからやって来たのかなんて以前は考えもしなかったし、彼は今も考えたりはしないだろう。しかしあたしにとってはそんな本すら脅威だった。最早この世界であたしとゼン以外に存在を信じられるものは無いといっても過言ではない。ページを繰る音が聞こえるたび、あたしはその本を破り捨ててしまいたい衝動に駆られた。
早くしないと、いつか“私”がゼンを連れて行ってしまう――誰の手にも届かない、遠い世界へ。
「……ねえ、ゼン」
「どうした、セン」
「抱いてよ」
だから、ゼンを取り返しの付かないところまであたしのものにしたかった。
あたしが呼びかけたことで振り向いた彼と向かい合わせになる。彼はあたしが突拍子もないことを言うものだからこの目をじっと見詰めるけれど、もう今回は逸らさない。あたしもまた、真剣な眼差しで彼を見詰めた。ゼンはあたしを見詰めるその目を強くし睨み付けたようにするけれど、そこにあたしを脅かすものは見出せない。その吸い込まれそうなほどの黒い瞳に映るのは、多量の動揺と多少の情欲か。少なくとも今あたしが言った言葉を本気で拒もうとする意思は見受けられなかった。しかしその目から見抜くべきだったことが唯一つ。彼は同じくしてあたしを受け入れようというわけでもなさそうだった。
「あたし、そんなに変なこと言った?」
「下らなさ過ぎて笑えもしないよ」
「嘘。ゼンはいつもそんなに笑ったりしないわ」
「……続きを読むから、センはもう寝ろよ」
「そんなもの見ないで、想像もつかないものを見るくらいなら――」
あたしはゆっくりと体を起こし、ゼンの体を跨いだ。彼は手放すことをしなかった小さな本をとうとう脇に落とした。抵抗などしない。しかしその鋭い目は依然あたしを強く捉えていて、その最高級の鏡に映るあたしの顔は、いつになく酷いものだった。
けれど最早戻ることは出来ない。何も知らず、何も疑うことの無かったあの頃には戻れないのだ。
あたしは纏っていた着物を動揺しない手付きで肩から落とした。しゅるり、と衣擦れの音だけがやけに生々しく響くけれど、それよりも遥かにこの心臓の音の方が五月蝿い。現れたのはあの日から桃色に染まることの無くなった白い肌で、喉が鳴った。ただ、それはどちらのものかもわからない。
「ここにいるあたしを見てよ」
あたしを、見てよ。この男を手放さないためならきっと何でも出来てしまうあたしは一体どこまでずるいのか。今、彼の唇が薄く弧を描いた。それはまるで浅ましいだけのあたしを嘲るかのようだった。
ゼンは勢いよく体を起こし、あたしをベッドへ沈ませる。そしてそのままこの煩いだけのあたしの口を塞いだ。冗談ですら重なり合うことの無かった唇が今冗談のように重なり合う事実を、あたしは客観的に見詰める。絡まる舌がそのまま解けなくなるということも無い。こうして接吻を交わす間にも忙しなく太腿を撫ぜる大きな手が吸い付いて離れなくなることも無かった。いっそこのままあたしを食べ尽くしてしまうような舌を噛み切ってやろうかとさえ思った。そうすることでこの人があたしへと倒れこみ、あたしのものになるのなら。
しかし彼はその思惑を知ってか知らずか、この唇を酸素の海へと逃がしてしまう。そうして少し息を乱すあたしを、彼はそのまま体を起こして見下ろした。
――見下ろした?
彼があたしを見下ろしたということは、この人の目に映っているのは“あたし”ではないのか?
「……もう後戻りは出来ないぞ、セン」
例えこの一瞬だけだとしても、あたしが、あなたに映っている?
ゼンはゆっくりと釦を外し、纏っていたシャツを先程の本のように簡単に捨ててしまった。そして全てがもどかしいままにあたしへと覆い被さってくる姿はまるで夢のようで、それなのにその肌はあたしを責めるかのように温かい。もう一度ゼンの唇があたしのそれへと優しく重なる頃、あたしは彼の背中へとこの汚れた腕を回した。
「後戻りなんて、したくないわ」
あたしとゼンの間に愛があるわけではない。それでもずるいあたしは幸せなのだと言い聞かせた。
……どこかで“私”が嘲笑っているのを聞きながら。
『自分のドッペルゲンガーに会うと、死んでしまうんだって』
それからというもの、あたしとゼンは暇があると飽く事無く抱き合った。昼夜が目に見えて存在するわけでもないこの世界で、酷く貪欲なままに。決してその行為自体が綺麗なものではないということはわかっていた。欲しかないような喘ぐ声に乗せて彼の名前を呼ぶことに躊躇う気持ちもあった。
ゼンは時折あたしを陵辱さえもした。夢に落ちかけるあたしを繰り返し蹂躙することで優しく救うかのように感じられたのだ。しかしそこに愛など無いのだと突き付けられているかのようにも感じられ――そんなこと突き付けられなくてもわかっている。全ては失うことを恐れたあたしが望んだ距離なのだから。
しかし恐れるあたしを知らないようにこの世界は段々と動き出していた。