ドッペルゲンガー
そうしてあたしはまたあの丘で、以前に作った砂山を撫で付け、形を整える。皆の分の部屋を用意して、食卓のテーブルは思い切り大きくしよう。シャンデリアは桃色の砂と白いクラゲで作ればきっと豪華なものになるだろうし、大広間も作って、そこで皆と舞踏会を開くんだ。頭の中でそんな造形美ばかりを描いてばかりいた。弟もあたしと同じ様にスコップと掌とを自分の砂山に行き来させている。彼が何を作るのかはわからないが、砂山はいつの間にかあたしのものよりも大きくなっていた。いつかくっつけてしまってもいいね、と弟は笑った。
それは無常な時間だった。この頭上をいくつのクラゲが飛び交っただろう。作り上げた砂山に薄い水玉の影がたくさん落ちるのはもう見慣れた光景だった。掌を輝く砂で綺麗に汚しては、弟と他愛も無い話を繰り返す。弟の手はそのうちに止まってしまって、お互いお喋りに夢中になるのは時間の問題だ。
けれどあたしが気にしているのはゼンのことだった。彼は、未だに来ない。
「姉ちゃん、いつ帰るの?」
「まだだよ。だってこれだけしか出来てないし、それに」
それにゼンが、そう言い掛けた瞬間だった。
弟があたしの背後に視線をやり、突然その目を見開いた。彼の顔は今までの朗らかさを失い、見る見るうちに青ざめていく。一体何があったのかと思うと同時に、その視線の方向でさくりと砂を踏む音が聞こえ、その後すぐにあたしの上へと影が落ちた。
この世界で人間などあたし達家族以外に存在しない。その人物は姿を見ずとも容易に想像が出来る。
「もう、ゼン。遅いよ……」
しかし立ち上がり振り返った先にいたのは――いや、それは確かに待ち人であったゼンだ。ただ様子がいつもとは違っていて、純真無垢だった弟を憎悪の色で汚してしまうには十分すぎた。
ゼンはその頬に胸に真っ赤な血を浴び、母を抱きかかえてそこに立っていた。彼の腕の中で母はぐったりとその細い四肢を投げ出し、少しも動くことはない。白い指先から零れた真紅の雫は、桃色の砂に鮮やかなコントラストを残した。いくつも、いくつも、規則的なその雫に時の流れを感じたのも事実だ。
「ゼン、母様は……」
「死んだ」
ゼンは抱えていた母をどさりと砂の上へ落とした。いくら柔らかく壊れそうな砂の上とはいえ結構な高さから落とされたのに、母はもう痛がることもしない。そうして足元に転がった母は胸元の傷が原因で死に至ったらしい。あたしは酷く冷静なままそこを凝視する。未だ乾くことの無いその血液が生々しく香った。ゼンも同じ様に転がる母を見下ろしていた。冷たいようで、どこか何かしらの情を込めたような視線で母を見下ろしていたのだ。
「死んだって、どういうことだよ」
「見ての通りだ、もう動かない」
「そうじゃなくて、どうして、どうして!」
「――苦しんだ?」
弟は抑えられない怒りを露にし、ゼンはそれを無表情で受け止め、あたしは急に何かが怖くなった。じっと見詰めた母の姿、あたしの脳裏にあたしが一番良く知っていて絶対に見たことの無い後姿が焼きついた。
「苦しんだよ」
「どのくらいの時間を?」
「わからない。ただ、一瞬だった」
「一瞬だったのね」
「……ああ」
「見届けて、くれたのね」
彼はそれ以上何も答えなかった。
弟は今言ったゼンの言葉に納得出来ず、ただみすみす母を死なせた彼を恨んでいるようだ。いつの間にかふらふらとあたし達の足元へやってきて、母の亡骸をその小さな体で抱き上げた。そうして自分が砂山を作っていたところへ移動する。そこには弟が掘った沢山の穴がある。それはひとつひとつ浅いものだが、弟はそれを何も言わずに掘り始めた。それらをくっつけ大きな穴にし、母を埋葬するらしい。俯き唇を噛み締めながら弟はその手にスコップを握る。そう言えば、エディプス・コンプレックスの塊のような弟だった。
しかしあたしはゼンが母を救ったのだと思っている。そしてあたしをそのうち奈落の底へ突き落とすのだ。
あたしは見詰めた。ゼンが急に何かを見据え始めたのを、あたしを見詰めながらあたしではない誰かを見ているのを、あたしもまた見詰め返した。
そうしてあたしは時間が急速に動き出したのを感じた。この何も知らなくて良かった世界を、何かが壊そうとしているのだ。その瞬間、後ろで強く結んでいたあたしの手から赤いスコップが零れ落ちた。それはそのまま作りかけの城をいとも簡単に壊して、あたしは“私”という存在を初めて悟ったのだ。
ずるい“あたし”と素直な“私”――それは表裏一体なのか、それとも。