ドッペルゲンガー
自分のドッペルゲンガーに会うと死んでしまうんだって……果たしてどっちが死ぬのだろう?
“私”が無邪気に微笑んだ。耳を塞ぐよりもゼンが声を張り上げるよりも早く、彼女はこの世界を壊した。
「あなた達の世界は、絵本なんだよ」
一瞬“私”が何を言っているのか全くわからなかった。それはあたし達には酷く理解しがたい言葉でしかなかった。“私”はこの世界を、この少しばかり幻想を背負った世界を、絵本だと一言で切り捨てたのだ。そのたった一言は世界の全ての調和を崩し、今までの永い時を無駄なものだったと詰り、一切合切をバラバラに引き裂いた。彼女の表情は憂いを含んだものではない――ただ、あたし達を哀れんでいるだけだ。あたし達にはここが全てで、哀れまれる謂れは全くない。それなのにあたしの心臓はどくんどくんと強い鼓動を響かせ治まることを知らない。それどころかどんどん早まり、いつか張り裂けてしまってもおかしくはなかった。
やはり“私”の存在は脅威でしかなかったのか。漸くあたしは全てを理解した。
「だから筋書きは決まってる。もう変えられないし、何度も何度も繰り返す」
「繰り返すってそんな、そんな馬鹿なこと……」
「ゼン、あなたはここには来られない。そしてもう一人の私、あなたは――」
今、“私”の緩められた口元が、あたしだけにわかるように卑しく歪められていく。“私”はゼンを連れて行く気など端から無かったのだ。会いたかったと嘯きながら、彼を連れて行こうとは微塵も考えていなかった。
ならば“私”は何を考えていたのか。そんなことは最早一目瞭然だった。
「あなたは愛されることなく永遠に、永遠にこの世界で生きるの」
ほら、今もあなたを見ている人はいるのかな?
言われるがままにあたしがそっと周りを見渡せば、そこには人間などあたしを除けば二人しかいない。その二人があたしを見ているのかといえば……どこかで覚悟していたけれど、あたしはそこに絶望を見た。
弟は今も砂丘の隅で泣いている。母の墓に寄り添い、その小さな肩を震わせている。しかし微かに動いた唇が呼んだのはあたしの名前などではない。どうせまた母の――あたしでは、なくて。
わかっていた。あたしが愛されることなど無いのだと、そんなことはわかっていた。けれどあたしはいつしかそれを求めてしまっていたようだ。そうでなければこの仕打ちがこんなに酷いものだと感じる筈が無い。これこそが、“私”がここに現れた一番の理由だったのだ。
恐る恐る振り返った先のゼンも、最早あたしを見ていない。あたしを見詰めていても、きっとその視線はあたしの中の“私”を探しているのでしょう。彼は一体何を望むのか。何に対して絶望し、何に対してその表情を歪める?あたしの絶望の先にはあなたしかいないのに、ゼンの絶望の先にはいつだって“私”がいる。
どくん、と胸が張り裂けそうなほどその鼓動を大きくしていく。分かりきっていた事実に慣れてしまった頭が、今更その事実を否定するこの滑稽さといったらない。そして憤りや悲しみなど、様々な感情が行き場を失う。次第に上手く息が出来なくなり、あたしはその場に膝をついた。
苦しいのに、いや、どうしてあたしが苦しまなければならないのだろう。どうして“私”じゃなくて“あたし”が。
「ねえ、私達のどっちがドッペルゲンガーなんだろうね」
……嗚呼、“私”が壊してしまいたかったのはこの世界でも何でもなく――あたしだったのか。
そこからはもう、あたしに記憶など殆ど残っていない。胸の痛みと共にあたしを襲ったのは激しい頭痛で、それは幸か不幸かこれ以上あたしにものを考えなくさせた。だからあたしにはもう何も分からないのだ。何も何も、どうしてこの空にクラゲが飛ばなくなったのだとか、どうして足が傷だらけなのだとか。涙で滲んだ視界にこちらへ向かって手を伸ばし、酷く焦ったようにセン、と叫んだ人物が誰であるかももうわからない。その手がどれだけ掴みたくて縋りたくて堪らなかったものなのかということさえ、あたしにはもう――結局誰かに抱き竦められるようにしてその肩越しに覗いた空に、あたしを救うものは何もない。ただ詰まりもしないのに苦しさだけを与えるこの喉が、張り裂けもしないのに痛みだけを与えるこの胸が、あたしをここに生かしていた。
それは息絶える以上の永遠。“私”が“あたし”にくれた永遠だった。
これで、おしまい?