ドッペルゲンガー
ぱたん、と丁度手に取っていた本を読み終えたとき、聞き慣れた低い声が私の名を呼ぶのを耳にした。ここが本屋という場所なだけあってその声は抑えられているものの、その人は小走りでこちらへとやって来た。
「おかえりなさい」
もう日も暮れ夜の七時になろうとしている頃、恋人は少し息を切らしながらいつものように私の横に立つ。仕事帰りの彼を私がこの街角に埋もれた古本屋で待つのはいつの間にか殆ど日課と言ってもいいほどになっていた。今日も私は大学からの帰り道、お気に入りの本を読みながら彼を待っていたのだ。私は何もそんなに慌てることは無いのに、と汗ばんだ頬を見てほんの少し笑った。
「また今日もそれ読んでたのか」
「これ?……うん」
また今日も、彼がそう言うように、私がここに来て読む本は決まってこの一冊だ。それは小さな店内の一番奥、薄暗いライトの当たる場所に置いてある。私の手の中にあるのは時代を感じる立派な古書でも、発見するのが困難な専門書でもない。私がいつも繰り返し読んでいるそれは少し変わった絵本だった。
大きさは普通の絵本と変わりないのだけれど、これには何故か名前が無かった。代わりにその表紙には、二人の男の子と一人の女の子が砂で遊んでいる様子が小さく描かれているだけだ。この絵本の内容など今更言うまでもないだろう――女の子の傍には赤いスコップが一つ転がっていた。
私はこの絵本をここに来るたびに読んでいる。何度も何度も繰り返し、内容などまるで変わらないのに飽きもせず私はこの絵本を手に取った。そうして今日もまたこの三人の幸せは潰えてしまったのだ。
『ねえ、私達のどっちがドッペルゲンガーなんだろうね』
知らないよ、そんな事。
「……ねえ、知ってる? かの文豪ゲーテは生涯に二度も自分のドッペルゲンガーに会ったんだって」
「ドッペルゲンガー?」
「なのに彼はそんな事があっても死ななかった。だから私が思うには――」
それどころかゲーテは最後にドッペルゲンガーを見て八年後、現在の自分があの日見た自分と同じ格好をしていることに気付く。そしてあの日の男が八年後の自分だったのだと知った。それはつまり、二点同時出現現象に人を死に至らしめる原因足りうる事実はないということだ。
それなら何が人々をここまで恐怖に陥れたのか。いや、もしかするとそれ自体が何よりの問題なのかもしれない。自分がもう一人の自分に出会う、これほど素晴らしいことなどどこを探したって見つからないのに。
「もう一人の自分を拒絶した時点で、その人は死んじゃうんだよ」
もう一人の自分が怒っちゃうのかもしれないね。私がそうおどけて言うと、恋人は呆れた顔でこちらを見遣った。私はこの人を呆れさせるのが余程得意なようだ。彼は溜息を吐いて踵を返した。
「何かと思えば、下らない」
「下らなくなんかないよ!」
「どう考えたって下さなさ過ぎる」
「そんなこと言ったって、死んじゃうかもしれないよ?」
私が悪戯にそう言うと、彼は本日二度目の溜息を吐いてこちらを振り返った。この胸に絵本を抱き締め、もしこんな遣り取りがこの中に届いているとしたら、それはとても残酷なことだと思った。
「……俺は死なないから大丈夫」
「そうだね、絶対殺したって死なないだろうね」
「言うようになったな」
「たまにはね! ああ、でもそうだなあ……」
冗談を言い合い笑っていると、ここの店主がちらりとこちらを覗いた。そうか、もう七時を過ぎているから店を閉めるのか。別に声を大にして帰れというような店主ではないということは時折会話も交わしたことがあるので知っているが、この時間ではそろそろ迷惑かもしれない。彼が行くぞ、と私を呼んだ。
今、この女の子はどんな表情をしているのだろう。ここからは何も窺えないから泣いているのか笑っているのか――いや、きっと彼女はもう……
「“あたし”は死んじゃったよ? 多分」
あれだけいた人間は死に絶え、街や住んでいた家まで崩れ、光も差す事無くあの美しかった桃色の砂すら輝かない。そして白いクラゲも空を飛ばない、何もない世界で生きていけるほど彼女は強くないだろう。今やたった一人、本当に大切な人間さえも見失った彼女が生きていける筈など無いのだ。
「馬鹿らしい……帰るぞ、千佳」
「うん、善和」
私が何の淀みもないかのように微笑んで見せると、彼は満足したのか、足早に店の外へ出た。さてこうなると本当にうかうかしていられない。彼は健気に待っていた私を平気で置いて帰ることの出来る男だ。全く彼は変わらないと苦笑を禁じ得なかった。
私はもう一度手の中にある絵本に視線を落とす。今頃気の触れたあの子を彼はどうしているのだろう。まだ抱き締めているだろうか。今度こそは幸せになろう、幸せになるんだと言いながら、次に私がこの絵本を開くときまで。
店の入り口の方から再度千佳、と私の名を呼ぶ声がある。本当に気の短い彼に苦笑しながら、私は何も躊躇わずにその絵本を棚へと戻した。
それはたった一つの、“あたし”だけの物語。
『ねえ、ドッペルゲンガーに会うと――死んじゃうんだって』
これで、おしまい。