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ドッペルゲンガー

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 “私”はこの然して広くもない空に大きな胸像を映す。そうしてあたし達をそこから見下ろしていた。その容貌はあたしと瓜二つで、しかしそこに湛える表情は今となっては似ても似つかない。今もこうして零れんばかりの涙を溜め、唇を震わせながら空を凝視するしかないあたしに対して、“私”はその口元に薄く笑みを湛えていた。同じ顔を持ち同じ声を持つあたしと“私”はきっと時を同じくしてあってはならなかった筈なのに、こうして今不思議な光景のまま見詰め合っている。それはまるで何の役にも立ちはしない鏡を見ているようだった。
 あたしはゼンに振り払われた腕をだらりと投げ出し、こんなあたしとは違って優しく微笑む“私”を見詰めた。そこに見えたのは、この世界が掻き消える瞬間だった。あれだけ生まれた人間が消滅し、それらが作り上げたものも廃墟と化した。この世界のもの、それは全て泡沫でしかないというのか。あたし達はまだ、ここに生きているのに。
 弟は空に浮かぶ“私”を見上げるのを止め、怯えた表情で一目散に砂丘を駆けた。きっとまた母の元へ行くのだろう。今はもう亡き人間の沢山の足に踏み荒らされた母の元へと。あたしにはもうその場所がどこだか分からなかった。
 そして足元には、あの日なくしたと思っていたお気に入りの赤いスコップ。ここにあったであろう砂の城はもう原型どころか影も見当たらないけれど、赤いスコップは風化に怯えることもなく、その半身を砂に預けていた。もう二度とあたしにお城など創れないことを分かっているかのようだった。
「お前は……セン、なのか?」
「そうね。私は、“セン”だよ」
 優しく囁かれるその声音に言いようのない恐怖を抱いたのはあたしだけかも知れない。ゼンはひたすら息を呑み空を、“私”を見上げているだけだった。“私”もまた愛おしそうにゼンを見詰めて――二人はまるでそうしている事が当然とでもいう風にそこにあった。恐る恐る、けれど確信を持って彼が呟いたのは“あたし”の名前なのに、どうしてあたしを見てはくれないのだろうか。
 一つ嫌というほどわかるのは、それでもあたしがここに立っているということだけだった。何も考えられなくなった頭は何も考えられないということだけを、ひたすら必死で考える。あれほど血を流し痛んだ足ももぎ取られてしまったと思えるほど感覚を残してはいないのに、この掌には現実を掴んだ冷ややかな感触があった。 目に映る“私”が虚構であればいい。掌を握り締めながらそう祈る思いは、精一杯あたしの逃げだった。
「私ずっとずっとあなたに会いたかった。何度も夢に見て、そして――嘘じゃ、ないわ」
「嘘じゃ、ない」
「ゼン、“私”の事信じてくれる?」
「だが、お前がセンだというならこいつは――」
 そっとゼンがこちらを振り返る。それは惰性だろうか、あたしを映すその瞳は戸惑いを隠さない。その向こう、薄暗い空に浮かんだ“私”が見せた笑顔が嘲るかのようにあたしを捉える瞬間も、この息は止まらなかった。どれだけそれを望んでも、止まることはなかった。
「……違う、違うよ、ゼン。あたしが、センだよ?」
「セン、俺は」
「だってずっと一緒にいたじゃない、ずっとあたしと、それは嘘なの?」
「そんなこと言っていないだろう!」
「なら簡単に、あたし以外を信じたりしないで!」
 広い広い、もう何もなくなってしまった世界にあたしの叫び声が痛いほど響いた。こうしてあたしがやり場のない思いを彼にぶつけるのは間違っているとわかっている。けれどこの世界にはもうあたしを咎める人間などいない。いや、もうずっと前からいなかった。だから危うかった均衡だっていとも簡単に崩せたのだ。
 あたしはゼンの腕を、弱弱しい力でもう一度引いた。彼はもう振り払うことはしなかった。
「……ッ、行かない、で」
「セン――」
「愛してくれなくても、いいから……傍にいて、“私”のところに、行かないで」
 まるで幼い子どものように泣きじゃくるあたしを先程も目の当たりにしていたはずのゼンは、その鋭い目を驚きに見開いた。それはあたしが初めて彼に縋る言葉を吐いたからか、それともどうしようもない未来を見てしまったからなのか。
 ゼンはもしかすると、いや、もしかしなくとも“私”と共に行くつもりだったのかもしれない。それはあたしとて常日頃何より危惧していたことだった。けれどゼンはそうあたしに面と向かって言わなかっただけなのだろう。それをするには彼が優しすぎたのだと信じている。
 この色さえも失いそうな世界に、あたしの嗚咽だけが響く。隅に蹲る弟がこちらをちらと振り返る。ゼンがその目をすっと細めた。
 そうしてその瞬間にこの世界自体どうしようもなくなって、誰もが見た崩壊の未来の意味を漸く悟るのだ。
「――大丈夫だよ」
 不意に柔らかな声がこの世界に落ちてきた。その余りに唐突で余りに重い何かを含んだ声のする方向を、あたしとゼンは見上げる。そこには憂いを含んだ泣き笑いの表情であたし達を見下ろす“私”がいた。彼女はあたし達にじっと見詰められる中、ゆるゆると首を横に振った。
 それは“私”が“あたし”を肯定した、たった一瞬間のこと。
「ゼン。あなたはこっちには来られないんだ」
 あの日からずっとあたしを悩ませ続けたひとつの未来が崩れ去る瞬間の開放感といったら、……いったら。けれどそのときのゼンの横顔に表れる落胆は、酷くあたしの胸を締め付けた。信じられないと、彼は声も出せずにその唇を振るわせる。やはりゼンは“私”と共に行くことを望んでいたのだ。しかしそれでも“私”の言うことが本当であるならば、彼は――。
 絶望に似た形で立ち尽くすゼンを見て、あたしはきっと誰よりも最低な人間になった。
「……何だって」
「本当はね、いくら会いたくても傍にいたくても、ゼン。あなたはこっちには来られない」
「どうして、なら、何故お前はここにいるんだ?」
「私が変なんじゃない――変なのはこの世界だよ」
 あたしとゼンが通うことのない想いを抱くこの世界で、“私”は首を横に振ることしかしない。こちらが罪悪感を覚えてしまいそうなほど苦しげに歪められた表情は、きっとあたしには真似などできないだろう。けれど“私”は何の罪悪感も抱かずに、全てを否定する言葉を吐いた。それはあたしだけにとどまらず、この世界、ゼンまでをも否定する。首が痛くなるほど見上げたその空に向かってゼンは何を思っただろう。
 あたしは“私”からゼンを守るように、この背中に庇い立った。先程彼がそうしてくれたように、……いや、やはり彼を奪われたくなかっただけかもしれない。それは勿論とてもおこがましいことだったのだけれど、あたしにはそうするしか出来ないのだと思った。
 そんなあたし達を見てか否か、“私”はふと嘲るように口元を綻ばせた。
「昼も夜もない? クラゲが空を飛んで、ヒトが何もないところから生まれる? そんなこと、有り得ないよ」
「……あなたなんかに、“私”なんかに何が分かるっていうのよ!」
「分かる、私には分かるよ。だって現に今もこのあなた達の世界は私の手の中にあるんだもの」
「セン、もういい――いいから、止めろ!」
「よくない、ゼンも“あたし”もちゃんと聞いて」
作品名:ドッペルゲンガー 作家名:まつもと