昌幸の徳川と肌が合わん
けた 。
家康は豊臣普請大名軍5万5千、家康直轄軍3千を率いて東海道経由で会津遠征に向かった。昌幸、信幸、幸村は、それぞれ居城のある上田、沼田に戻って軍勢を整え、家康の会津遠征軍に合流する為に(栃木県)小山を目指した。その途中、昌幸宛に一通の密書が届いた。石田三成からで「主君秀頼公の下、西方の兵を結集させ、家康を討伐するのでお味方願いたい」という内容のものだった。すぐさま信幸、幸村と三人で犬伏で密議をおこなった。昌幸が長男の信幸に「そちはどちらにつくのか?」信幸は「私は当然家康公に従います。ひとつは、家康公と三成公ではあまりにも力量が違います。ほぼ家康公の勝ちでしょう。ふたつは、私は家康公の家臣の本多忠勝の娘を貰い受けてる身です。これは当然の流れです。父上はどうされるのです?と信幸は聞いた。昌幸は幸村の顔を見てから「わしは三成方につく」それを聞くや否や、即信幸が「父上、三成公ではほぼ家康公に勝つのは難しいでしょう。お考え直し下さい。父上っ」昌幸が幸村に「そちはどうする?」と聞かれ、幸村は「私は秀吉公に恩義があり、大谷吉継公の娘を貰い受けてる身なので三成公に従います」即信幸が「幸村っ!正気かっ!」昌幸が
昌幸が思案したのち、「わしと幸村は三成につく。信幸は家康につけ。東と西に別れても真田家は生き残る」信幸は「父上、幸村これでお互い離れ離れになるやも知れません」昌幸は部下に「酒と膳を持って来い」と別れの酒を嗜んだ。信幸は「父上、幸村お達者で」
と犬伏の地を後にし、秀忠のもとへ戻った。昌幸と幸村は上田に引き返す事となり、昌幸は幸村に「途中、沼田に寄り孫の顔でも見るか」と言い沼田城に立ち寄った。幸村は(父上はそれを餌に兄の不在をいい事に乗っ取ろうという魂胆だな)と思っていた。沼田城に着くと城門から昌幸は「わしじゃ昌幸じゃ。孫の顔が見たいので開けてくれんかの?」と言ったが城門が開く気配がなかった。昌幸は幸村の顔を見ながら「さて、どうした事か?」と話してる間に、留守を預かってる信幸の正室の小松殿(本多忠勝の娘)が武装したいでたちで「叔父様とはいえ、敵味方に別れたので城内には入れさせるわけにはまいりませぬ」と拒否した。昌幸は激怒したが幸村が「父上、私どもの負けです。さぁ行きましょう」となだめた。昌幸は「信幸には出来すぎた嫁じゃ。負けたな。ハッハッ」と城を後にし、上田に戻って行った。三成が挙兵し、それを知って家康は小山に着陣し、上杉攻めを中止し三成攻めが決まった。家康は東海道を西上し、秀忠は中山道を進み途中で家康と合流する計画であった。秀忠は途中、昌幸、幸村の上田城を軽く蹴落として合流しようと上田に進軍した。家康が出発した翌日の9月2日に秀忠は小諸に到着した。秀忠は信幸を使者として上田城に派遣し、昌幸に降伏勧告の要求を伝えた。昌幸は頭を剃って城から出て来て「分かった。要求に応じよう。これだけの大軍では勝ち目がないからのぉ。ただ城内を掃除をしてからお渡ししたい。2、3日の時間をくれい」と使者の信幸に伝えた。信幸は心の中で(父上があっさりと城を明け渡す訳がない)と思っていた。それから3日たっても全く音沙汰がなく、もう一度秀忠の使者が上田城にでむき「どうなっておるのか?」と怒鳴り、昌幸は「返事を伸ばしてたのは籠城の準備をしていたためだ。さぁかかって来い。若造。と伝えておけ!」と言い、それを聞いた秀忠は重臣の本多正信、榊原康政、大久保忠隣らが「上田を無視して進軍すべし」との進言も聞き入れず「図ったな〜昌幸め。城を攻め落とせ〜」と命令した。9月6日、秀忠は上田城の周りの田の稲を苅田して上田城から真田軍を誘い出そうとした。昌幸は少数の兵を城からだし、その行為を妨害するふりをさせ、徳川軍が攻めかかろうとする所を潜んでいた伏兵が襲いかかり、徳川軍が城壁を登っている所で「撃て〜」と鉄砲の一斉射撃が始まった。大手門にも徳川軍がなだれ込んでいる所を鉄砲や弓の雨あられ状態で、さらに幸村の部隊が門から出撃し、側面からは伏兵が突撃した。城下に施された仕掛けにはまり、残った兵は神川を渡って退却している所を堰き止めていた川の水を放流し、無数の死傷者をだした。徳川軍の後続部隊も川の氾濫により身動きがとれず、後の徳川方の記述にも「我が軍、ことごとく腰が抜け死傷者算なし」と書かれたほどの大惨敗であった。徳川軍38000に対して真田軍3000(多数の農民兵含む)。またしても昌幸と民衆が一丸となって勝ち取った勝利であった。結局秀忠軍はこれが元で関ヶ原の決戦に間に合わなかった。昌幸は「皆の者よく戦った。西軍の勝った暁にはたっぷりと恩賜を与えようぞ。ハッハッハ」と上機嫌であった。(これでわしも大大名になれるぞ)
家康は豊臣普請大名軍5万5千、家康直轄軍3千を率いて東海道経由で会津遠征に向かった。昌幸、信幸、幸村は、それぞれ居城のある上田、沼田に戻って軍勢を整え、家康の会津遠征軍に合流する為に(栃木県)小山を目指した。その途中、昌幸宛に一通の密書が届いた。石田三成からで「主君秀頼公の下、西方の兵を結集させ、家康を討伐するのでお味方願いたい」という内容のものだった。すぐさま信幸、幸村と三人で犬伏で密議をおこなった。昌幸が長男の信幸に「そちはどちらにつくのか?」信幸は「私は当然家康公に従います。ひとつは、家康公と三成公ではあまりにも力量が違います。ほぼ家康公の勝ちでしょう。ふたつは、私は家康公の家臣の本多忠勝の娘を貰い受けてる身です。これは当然の流れです。父上はどうされるのです?と信幸は聞いた。昌幸は幸村の顔を見てから「わしは三成方につく」それを聞くや否や、即信幸が「父上、三成公ではほぼ家康公に勝つのは難しいでしょう。お考え直し下さい。父上っ」昌幸が幸村に「そちはどうする?」と聞かれ、幸村は「私は秀吉公に恩義があり、大谷吉継公の娘を貰い受けてる身なので三成公に従います」即信幸が「幸村っ!正気かっ!」昌幸が
昌幸が思案したのち、「わしと幸村は三成につく。信幸は家康につけ。東と西に別れても真田家は生き残る」信幸は「父上、幸村これでお互い離れ離れになるやも知れません」昌幸は部下に「酒と膳を持って来い」と別れの酒を嗜んだ。信幸は「父上、幸村お達者で」
と犬伏の地を後にし、秀忠のもとへ戻った。昌幸と幸村は上田に引き返す事となり、昌幸は幸村に「途中、沼田に寄り孫の顔でも見るか」と言い沼田城に立ち寄った。幸村は(父上はそれを餌に兄の不在をいい事に乗っ取ろうという魂胆だな)と思っていた。沼田城に着くと城門から昌幸は「わしじゃ昌幸じゃ。孫の顔が見たいので開けてくれんかの?」と言ったが城門が開く気配がなかった。昌幸は幸村の顔を見ながら「さて、どうした事か?」と話してる間に、留守を預かってる信幸の正室の小松殿(本多忠勝の娘)が武装したいでたちで「叔父様とはいえ、敵味方に別れたので城内には入れさせるわけにはまいりませぬ」と拒否した。昌幸は激怒したが幸村が「父上、私どもの負けです。さぁ行きましょう」となだめた。昌幸は「信幸には出来すぎた嫁じゃ。負けたな。ハッハッ」と城を後にし、上田に戻って行った。三成が挙兵し、それを知って家康は小山に着陣し、上杉攻めを中止し三成攻めが決まった。家康は東海道を西上し、秀忠は中山道を進み途中で家康と合流する計画であった。秀忠は途中、昌幸、幸村の上田城を軽く蹴落として合流しようと上田に進軍した。家康が出発した翌日の9月2日に秀忠は小諸に到着した。秀忠は信幸を使者として上田城に派遣し、昌幸に降伏勧告の要求を伝えた。昌幸は頭を剃って城から出て来て「分かった。要求に応じよう。これだけの大軍では勝ち目がないからのぉ。ただ城内を掃除をしてからお渡ししたい。2、3日の時間をくれい」と使者の信幸に伝えた。信幸は心の中で(父上があっさりと城を明け渡す訳がない)と思っていた。それから3日たっても全く音沙汰がなく、もう一度秀忠の使者が上田城にでむき「どうなっておるのか?」と怒鳴り、昌幸は「返事を伸ばしてたのは籠城の準備をしていたためだ。さぁかかって来い。若造。と伝えておけ!」と言い、それを聞いた秀忠は重臣の本多正信、榊原康政、大久保忠隣らが「上田を無視して進軍すべし」との進言も聞き入れず「図ったな〜昌幸め。城を攻め落とせ〜」と命令した。9月6日、秀忠は上田城の周りの田の稲を苅田して上田城から真田軍を誘い出そうとした。昌幸は少数の兵を城からだし、その行為を妨害するふりをさせ、徳川軍が攻めかかろうとする所を潜んでいた伏兵が襲いかかり、徳川軍が城壁を登っている所で「撃て〜」と鉄砲の一斉射撃が始まった。大手門にも徳川軍がなだれ込んでいる所を鉄砲や弓の雨あられ状態で、さらに幸村の部隊が門から出撃し、側面からは伏兵が突撃した。城下に施された仕掛けにはまり、残った兵は神川を渡って退却している所を堰き止めていた川の水を放流し、無数の死傷者をだした。徳川軍の後続部隊も川の氾濫により身動きがとれず、後の徳川方の記述にも「我が軍、ことごとく腰が抜け死傷者算なし」と書かれたほどの大惨敗であった。徳川軍38000に対して真田軍3000(多数の農民兵含む)。またしても昌幸と民衆が一丸となって勝ち取った勝利であった。結局秀忠軍はこれが元で関ヶ原の決戦に間に合わなかった。昌幸は「皆の者よく戦った。西軍の勝った暁にはたっぷりと恩賜を与えようぞ。ハッハッハ」と上機嫌であった。(これでわしも大大名になれるぞ)
作品名:昌幸の徳川と肌が合わん 作家名:政彦