昌幸の徳川と肌が合わん
勝頼は新府城を焼き払い、信茂のいる岩殿城へ移動した。軍議を開いた時には2万の軍勢が、諏訪を引き払う時には8千に、甲斐へ戻った時には1千に減り、小山田信茂が裏切って行く手を遮られた時には40人余りとなって、勝頼は天目山麓の田野で織田軍の滝川一益勢に囲まれ自刃した。昌幸のもとにも「勝頼様一行天目山麓で北条夫人、嫡子信勝様もお亡くなりに」との知らせが入り、詳しく調べさせて、信茂が裏切り、岩殿城の入城を拒否し、鉄砲で撃ち掛けたという。これを聞いて昌幸は「勝頼様、さぞかしご無念だったでしょう」「これからは自分の力でいきていかねば」「勝頼様…うっううっ…」主君を失い、自分の判断で、自分の力で生き残りの道を見つけなければならない。それには、知略、謀略をめぐらし、勝頼様の無念を想い、心に誓った。その後は信長に恭順を誓い、その年の6月に大事件が起こった。本能寺の変である。信長、信忠親子が明智光秀の軍勢に襲われ自刃して果てた。その直後、羽柴秀吉は中国地方の毛利氏と和睦し、すぐさま光秀討伐のため動いた。(中国大返し) 家康は甲斐へ、上杉景勝は信濃・北進地方へ、北条氏直は上野へ侵略に動いた。沼田城は武田討伐の恩賞で滝川一益に与えられており、信長の死に乗じて北条氏直は上野の滝川一益を攻め敗れた一益は伊勢を目指して落ち延びた。昌幸は北条方と沼田〜厩橋の経路の拠点を争ったが、真田勢には不利な戦いの連続で小諸城が陥落し、北条氏直の下に出頭し恭順をし、北条の傘下に属した。北条と上杉は川中島をめぐって対峙したが軍事衝突にはならなかったが、その間、家康は旧武田の家臣を取り入れながら領土を広げていった。昌幸はその後、家康からの勧誘を受け帰属を受け入れた。家康と約束した条件は、「上州長野一跡・甲州において二千貫文、諏訪ぐならびに当知行の事」であった。この時期、家康軍一万、北条軍二万で対峙していた。昌幸は、滝川勢が去った沼田城を矢沢頼綱に奪還させた。この後、北条と徳川が和睦し、その条件の一つが沼田の地を北条に渡すこと。であった。この時はまだ昌幸には知らされていなかったようだ。この時期に昌幸は上田の平地に上田城の築城に取り掛かった。この目的は海津城の上杉景勝に対抗する為だと言われているが、他の軍勢に対抗する為に、先を読んで築城したと私は思う。この頃秀吉は、山崎合戦で明智光秀に勝利し、賤ヶ岳合戦で柴田勝家に勝利して天下統一の最有力者として、小牧、長久手の合戦では家康に局地戦では敗北したが、秀吉の方が圧倒的に優勢で、家康は背後の北条との関係が悪化すれば、身動きが取れなくなるので北条の希望通り、家康は昌幸に沼田割譲を迫った。昌幸の家臣の中には、家康は今や秀吉に次ぐ実力者で家康の条件を受け入れるべし。と言う意見も出たが、昌幸は家臣に「沼田を家康に渡せばそれに乗じ、家康に吸収されるだろう。それに沼田は我らの武功によって勝ち得た地なのに北条に渡すなどもってのほかだ。」「あの狸め〜、あいつとは肌に合わん」と徳川の使者にもはっきりと拒否をした。その直後すぐに上杉景勝に帰属を申し出る。景勝の方は昌幸を信用出来なかったようだが、上杉家老の直江兼続が昌幸を味方にすれば、越後〜信濃のルートを確保出来、徳川や北条が越後を侵略しにくくなると判断し、景勝は帰順を受け入れ、昌幸は次男の幸村(信繁)を人質として越後へ送り出した。兼続はもちろんの事、人前で笑う事のない景勝も幸村と対面し、えらく幸村を気に入ったらしく「お主を人質だと思わん。ゆるりとするがいい。」と言って知行を与えた。その時に笑顔を見せたという。家康は「昌幸め、裏切りおって。真田一族を潰してしまえ。」と1585(天正13)年8月、家康は約7000の軍勢を上田に差し向けた。家康は強敵武田がいなくなった事で、勢力拡大のチャンスであった。昌幸の事を「小勢力で何が出来る」と侮っていた事であろう。8月2日徳川軍が上田に着陣、真田軍は1000余りと城内に入れた平民1000を入れて2000で迎えうった。戸石城に長男の信幸を300、矢沢城には矢沢頼幸と上杉の援兵を入れ、昌幸自身は上田城に構え、城内で「高砂の舞」を歌った。これを聞いた徳川の兵は「おのれ〜なめおって〜」と城内にいっせいに侵入した。昌幸はこの時、囲碁をしていて、相手を引きつけるだけ引きつけて、「期は熟した。ものどもかかれ〜」と合図し、二ノ丸の門を閉めており、行き場を失くした徳川軍に一斉射撃、槍や石つぶてを使った攻撃をし、混乱した徳川軍が逃げたが、城壁の兵には丸太や槍、石などで攻撃し、たまらず城下へ逃げたが事前に平民を避難させており、逃げようにも柵がしてあり、そこへ火矢が撃ち込まれ、さらにそこから逃げた徳川兵に信幸の伏兵が横から突撃し、大打撃を受けかろうじて退却した。徳川軍の死者1300余りに対して真田軍の死者は40人程で真田軍の大勝利に終わった。 昌幸は「皆の者、徳川相手に怯まずよう働いてくれた。皆の力で勝ち取った勝利じゃ」その後、昌幸の武名は各地に広がり絶賛される事となる。引き下がった徳川軍の一部は小諸城に入っていたが、全面撤退した。昌幸は徳川軍が体制を立て直して反撃して来ると思い当惑した。家康の重臣石川数正が秀吉に寝返ったのだ。これで徳川の情報が筒抜けになってしまうだろう。この後、昌幸は上杉の人質に出していた幸村を秀吉の下に人質として送りだした。秀吉も幸村を見るや「そちは非常に聡明で素直で気に入った。気を使う事はないぞ」とたいそう気に入ったようだ。景勝が上洛した隙に上田に戻され、大坂に送られた。景勝はそれを知り激怒した。その後、景勝は秀吉に「源次郎幸村を必ずお返し下さい」ともうし送った。その後、秀吉の下に家康が上洛し昌幸は家康の組下大名になった。秀吉は小田原攻めを終え、奥州仕置を行い天下統一を成した。昌幸は忙しながらも何とかこの難局を乗り切った。1598年、醍醐の花見の後、秀吉は病に臥すようになった。昌幸は息子の幸村に「間も無く天下に争乱が起こるだろう」それを聞いた幸村は「父上は大きな野望をお有りで」昌幸は「そうだ。この真田家は小大名で終わりとうないわ。ふっふっ」と笑みを浮かべた。その年の8月、太閤秀吉が死去した。遺言は五大老、五奉行に「秀頼の事をよろしくたのむ」と涙ながらに訴えていた。秀吉の死の翌年前田利家が死去した。唯一、家康に対抗出来る人望の持ち主であった。家康は加藤清正、福島正則ら豊臣恩顧の武断派の武将たちが、文治派の石田三成と対立しているのを利用した。対立の理由は朝鮮出兵の失敗や冷たくあしらったり、人を見下す態度が積み重なっての事であった。慶長5年(1600)4月、五大老の一人の上杉景勝が同職筆頭の徳川家康に反旗を翻し、上洛を拒否した。「家康こそ天下を狙う輩なり。その下につく事を良しとせず」といい、城を固めて臨戦体制を作った。この時、上杉筆頭家老の直江兼続と石田三成が家康を挟み打ちにしようと画策していた。老獪な家康はその策にあえて乗り「上杉景勝は秀頼公に謀叛を企んでいる」と名目をつけ、上杉討伐の兵を大坂城に集めた。その中には、秀吉子飼いの福島正則や加藤清正らの大名が集まった。家康側は秀頼の名代という大義名分があり、上杉側は逆賊となるように仕向
作品名:昌幸の徳川と肌が合わん 作家名:政彦