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昌幸の徳川と肌が合わん

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ところが昌幸のもとに思いがけない知らせが入った。9月15日、関ヶ原の地で東西20まんの兵が激突し、わずか一日で西軍が大惨敗したという」それを聞き昌幸は「そんな馬鹿なそれだけの軍勢が衝突してわずか一日で決着がつくはずがない。わしが4万近い軍勢を引きつけて決戦に間に合わせなくしたというのに…」その後、家康は西軍に加担した昌幸、幸村親子を死罪にすると命じたが信幸が「父と弟の命を助けて下されば、信濃12郡の恩賜も入りません。どうかお助け下さい」と家康に懇願したが、家康は「そちは非常にわしに尽くしてくれている。じゃがあの真田親子は助ける訳にはいかぬ」それを聞いた信幸の舅の本多忠勝は「この信幸は真に家康様に忠義を貫いて尽力している。なのにそれがわからぬのなら、この忠勝も家康様に忠義を貫いて来た身。この信幸と上田に篭り殿と一戦つかまつる!!」それを聞いた家康は「分かった。助命をいたそう」これで昌幸、幸村親子は高野山麓の九度山に幽閉が決まった。これを知った昌幸は幸村に「命を助けるそうだ。ハッハッまだ何が起こるかわからぬなぁ」それを聞いた幸村は「本当ですなぁ。ハッハッ」とお互いの顔を見合っていた。後日、信幸に九度山へ向かう昌幸は「残念だ。家康をこういう目に合わせてやれないのが悔しいのぅ。信幸後は頼むぞ」と言い涙を流して幸村と幸村の妻子、家臣16名を伴って九度山へ向かった。九度山での生活は碁をうったり、畑を耕したり、狩をしたり、読書をしたりした。でもいつかこの山から降りる日が来る事を信じ、幸村と共に鍛練に励んだ。信幸や国許からの仕送りはあったがそれだけでは養っていけず、生活は困窮が増すばかりであった。最初は「いつかは赦免されたら以前のように武名をとどろかせてやるわ」と気丈でいたが年々身体と心が衰えていった。昌幸は次第に病気がちになり、源次ッ(幸村の事)を呼んで信幸宛に手紙を書かせた。「この一両日は年積もり、気根草臥れ候」と書き送っている。配流生活から11年後の1611年、昌幸は死の間際幸村を呼び「わしにお迎えが来たようじゃ」幸村は「父上、何を弱音を吐いておられます。治りますぞ」昌幸は「いいや。わかるのじゃ...源次よ。これより後、関東と大坂は必ず手切れになり、戦となろう。そちは大坂方につくのか?」幸村は「はい」それを聞いた昌幸は戦術を幸村に話し「おぬしはわしより優れた能力をもっている。それは間違いない。自信を持て。しかし、わしであれば大将となって大坂の浪人を従えて、関東勢を翻弄出来るであろうが、おぬしは知名度がないので先ほど教えた策を使いこなすのは難しいだろう...源次よそろそろお迎えが来たようじゃ。天からおぬしの活躍を見守っているぞ。それではさらばだ」 幸村は「父上、父上っ。この源次、父上と兄上の下に生まれて幸せでした。後は武士として一花咲かせるのみです」
九度山での配流生活の間に家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開き、その後嫡子秀忠に将軍職を譲り、自らは大御所として徳川政権を確固たるものとしていた。家康は最終仕上げとして方広寺、鐘銘事件をこじつけ大坂決戦に追い込んだ。幸村は大坂方として大坂冬の陣では、大坂城の南側に出丸を築き、関東勢を苦しめ、その後の夏の陣では家康の馬印を倒し、家康の本陣に3度突入し、あと一歩の所まで追い詰めたが、多勢に無勢次第に圧倒的な兵力の前に茶臼山まで押しまくられ真田軍はみな討ち死にした。幸村は安居天神で疲れきって傷だらけで全く動けなくなっていた。幸村は「父上、我の戦ぶりどうでございましたか?」あの世で昌幸は「源次よ。天晴れであった。今、わしは勝頼様とあの世でおぬしの活躍を見ておった。ようやった。もう十分だ。後は信之が真田をりっぱに受け継ぐであろう。さぁそろそろこっちに来い。勝頼様と一杯やろうではないか」幸村は「父上、兄上...」幸村だな、その首頂戴いたす。
幸村も父の元に旅立った。この活躍で真田一族の活躍は不動のものになった。
作品名:昌幸の徳川と肌が合わん 作家名:政彦