昌幸の徳川と肌が合わん
これは後に、伝説となった真田幸村の父真田昌幸の生き様を書いた物語です。
真田源五郎昌幸は1553年(天文22年)に、弟の源次郎信尹と一緒に武田氏の人質に出され、昌幸は信玄の近習になったと言われている。
近習とは、武芸や知能が優れた者が選ばれ、主君の警護や牢人を新たに召し抱える時の面接や人物を見定める役割を行ったとされる。信玄の側近として昌幸は軍略・政略を学びながら才能を伸ばしていった。やがて昌幸は、武田一門の武藤家のの名跡を継ぎ、武藤喜兵衛尉と名乗った。青年時代は使番として、信玄の命令を伝達する役目を果し、軍監として騎馬15騎、足軽30人を指揮する足軽大将を務めた。後に昌世と二人が、「信玄の二つの目」と讃えられたという。その後、三方ケ原の戦いに出陣し、信玄死去後、勝頼が跡を継いだ。勝頼は猪武者で思慮がない人物と評価されがちだが信長は「勝頼は若輩ながら、信玄の掟をまもり、油断のならない人物だ」と上杉謙信に書状に書き送っている。この時の同盟関係は織田と徳川、武田と北条が同盟を結んでおり、1575年(天正3年)に勝頼は家康に攻め取られた三河・長篠城を取り返すために、1万5千の兵を率いて出陣した。これを長篠の地で織田・徳川連合軍が迎えうった。「甲陽軍艦」では、織田・徳川10万に対して武田は1万2千で戦ったとされる。「信長公記」は織田軍3万に対して武田軍1万5千とされていて、推測すると諸説はあるが軍の人員の差ではないかと思う。この戦いで武田軍は多くの有能な家臣を失ってしまった。昌幸の兄2人も戦死したため真田の家督を継ぐ事となった。1578年上杉謙信が死去し、景勝、景虎の間で御館の乱と呼ばれる家督争いが起こった。勝頼は北条氏政の妹を娶っていたが、景勝を支援し勝利した。その後、勝頼はみずからは駿河で家康と戦闘のため転戦し、東上野、沼田攻略を昌幸に任せたという。昌幸は叔父の矢沢頼綱に沼田城攻撃を命じ、北条方の名胡桃城を調略によって落城させ、昌幸は沼田城攻略を成功させた。天正9年(1581)に勝頼から新府城の築城奉行を命じられた。この時期、勝頼は北条、徳川、織田と三方から圧力を受け守勢に回っており、そのために新府城を築いて乗り切ろうと考えたのだろう。勝頼が新府城に移り住んで二ヶ月後、木曽義昌が勝頼を背いて織田に寝返り、これをきっかけに信長は嫡男の信忠、家康、氏政、金森長近らが甲斐・信濃へ侵攻を開始した。その後、穴山梅雪が家康に寝返り、武田家中はみな離反してしまった。昌幸は「勝頼様、甲斐本国は周囲を敵に囲まれ危険です。私の領地である上野吾妻の岩櫃城に避難して下さい。近くの戸石城に息子の信幸、伯父の矢沢頼綱を入れ、沼田城には弟の信尹を入れて持ちこたえ、再起を図りましょう」とすかさず小山田信茂が「上様、真田昌幸はどこから来たかわからない外様の者です。そのような信用ならない者より、私の領地の岩殿城で再起を図りましょう。この新府城からは近くいので安全です」勝頼は「昌幸、そちの気持ちは嬉しいが岩殿のほうが女子、子らもいるので岩殿に行こう」と言われ、昌幸は信茂を信用していなかった。
真田源五郎昌幸は1553年(天文22年)に、弟の源次郎信尹と一緒に武田氏の人質に出され、昌幸は信玄の近習になったと言われている。
近習とは、武芸や知能が優れた者が選ばれ、主君の警護や牢人を新たに召し抱える時の面接や人物を見定める役割を行ったとされる。信玄の側近として昌幸は軍略・政略を学びながら才能を伸ばしていった。やがて昌幸は、武田一門の武藤家のの名跡を継ぎ、武藤喜兵衛尉と名乗った。青年時代は使番として、信玄の命令を伝達する役目を果し、軍監として騎馬15騎、足軽30人を指揮する足軽大将を務めた。後に昌世と二人が、「信玄の二つの目」と讃えられたという。その後、三方ケ原の戦いに出陣し、信玄死去後、勝頼が跡を継いだ。勝頼は猪武者で思慮がない人物と評価されがちだが信長は「勝頼は若輩ながら、信玄の掟をまもり、油断のならない人物だ」と上杉謙信に書状に書き送っている。この時の同盟関係は織田と徳川、武田と北条が同盟を結んでおり、1575年(天正3年)に勝頼は家康に攻め取られた三河・長篠城を取り返すために、1万5千の兵を率いて出陣した。これを長篠の地で織田・徳川連合軍が迎えうった。「甲陽軍艦」では、織田・徳川10万に対して武田は1万2千で戦ったとされる。「信長公記」は織田軍3万に対して武田軍1万5千とされていて、推測すると諸説はあるが軍の人員の差ではないかと思う。この戦いで武田軍は多くの有能な家臣を失ってしまった。昌幸の兄2人も戦死したため真田の家督を継ぐ事となった。1578年上杉謙信が死去し、景勝、景虎の間で御館の乱と呼ばれる家督争いが起こった。勝頼は北条氏政の妹を娶っていたが、景勝を支援し勝利した。その後、勝頼はみずからは駿河で家康と戦闘のため転戦し、東上野、沼田攻略を昌幸に任せたという。昌幸は叔父の矢沢頼綱に沼田城攻撃を命じ、北条方の名胡桃城を調略によって落城させ、昌幸は沼田城攻略を成功させた。天正9年(1581)に勝頼から新府城の築城奉行を命じられた。この時期、勝頼は北条、徳川、織田と三方から圧力を受け守勢に回っており、そのために新府城を築いて乗り切ろうと考えたのだろう。勝頼が新府城に移り住んで二ヶ月後、木曽義昌が勝頼を背いて織田に寝返り、これをきっかけに信長は嫡男の信忠、家康、氏政、金森長近らが甲斐・信濃へ侵攻を開始した。その後、穴山梅雪が家康に寝返り、武田家中はみな離反してしまった。昌幸は「勝頼様、甲斐本国は周囲を敵に囲まれ危険です。私の領地である上野吾妻の岩櫃城に避難して下さい。近くの戸石城に息子の信幸、伯父の矢沢頼綱を入れ、沼田城には弟の信尹を入れて持ちこたえ、再起を図りましょう」とすかさず小山田信茂が「上様、真田昌幸はどこから来たかわからない外様の者です。そのような信用ならない者より、私の領地の岩殿城で再起を図りましょう。この新府城からは近くいので安全です」勝頼は「昌幸、そちの気持ちは嬉しいが岩殿のほうが女子、子らもいるので岩殿に行こう」と言われ、昌幸は信茂を信用していなかった。
作品名:昌幸の徳川と肌が合わん 作家名:政彦