鐘の鳴るとき
第五章
1本目のワインがなくなろうとしていた。
僕といえばまわり始めた酔いとコタツの中の温かさが混じりあって頭の周りに熱を帯びて作り出した恍惚感に浸っていた。
コタツの上には食べかけのビーフジャーキーやヨレヨレが冷蔵庫から取り出した特製のお新香が並んでいる。
ヨレヨレの赤い顔が更に赤味を増している。
だが、グラスを飲む勢いはいっこうに衰えはしない。
少し心配してしまうほどハイペースだった。
「にいちゃん、最近、景気はどうなん?儲かってまっかあ。」
「いや、全然。風邪引いて長く仕事休んじゃったし。」
「そかあ。俺も一緒、全然稼げん。そこも同志かあ。」
そう言うとヨレヨレは大げさなしぐさで膝を叩き笑い出した。
「なんの仕事してるの?」
「俺は土木やってんのよ。派遣っつーやつだけどね。最近じゃ日数減らされて全然稼げないんよ。」
グラスを持つヨレヨレの指先は黒ずんでいて、手の甲は傷だらけでとても固そうに見えた。
こんな手をどこかで見たことがあると思い、それが幼い頃に見た父親の手であることに気が付いた。
2本目のワインの栓を開けた。
時計を見れば午後9時を少し過ぎた頃だった。
隣の部屋からテレビの音が聞こえてくる。
「紅白とか見ないの?大晦日だけど。」
僕がそう言うとヨレヨレは一瞬表情を固めて息をのむと語りだした。
「紅白は見ん。思いだすんだよ、昔を。」
「昔?」
「昔は一緒に見てたのよ、紅白。嫁さんとぼうずの3人で。」
そう語るヨレヨレは悲しみと懐かしさが織り交ざった遠い目をしていた。
そしてグラスにワインを注ぐと一気に飲み干した。
僕はそれを見ながらヨレヨレが抱えた喪失について思いを馳せた。
だが、上手く想像することが出来なかった。自分はまだ喪失するものを獲得していなかった。
ヨレヨレの持つ喪失に少しだけ嫉妬を抱いた。
「俺のことばかり聞いて、にいちゃんのことは全然喋らんな。」
「いや、話すようなもの、自分持ってないから。」
僕は目を伏せた。
そしてあの白い部屋での日々、惨めさが浮かび上がってきた。
煙草を取り出すと火をつけた。
白く汚れた煙が部屋の中にたちこめる。
「にいちゃんは若いしこれからだもんな。焦ることはない。やりたいようにやればいい。そんでいっぱい失敗していっぱい失敗して最後に勝てばいいんよ。」
そう言ってヨレヨレは僕の肩を何度も叩いた。
僕は何と言っていいかわからずに黙って笑った。
そして最後の言葉はヨレヨレ自身に言ったのではないかと思考を巡らせた。
ヨレヨレもまたこの貧しい生活のなかで何かを探し何かを勝ち取ろうともがいているのではないか。
そう思うと、ヨレヨレに対する親しみに、沸き起こる不思議な勇気に、そして何よりそんなヨレヨレの温かい言葉に僕の目からは涙が溢れ始めた。
「なんで泣いてんのよ。びっくりしたわ。」
ヨレヨレは驚いた表情を見せたがそれはすぐに和やかな笑顔に変わった。
僕は嗚咽を漏らさないように歯を喰いしばった。
それでも涙は決壊したダムのように止まることはなかった。なんとか言葉をつむぎ出す。
「自分……友達いなくて……毎日部屋に1人で……。」
あの白い部屋での孤独な日々がフラッシュバックした。
暗く冷たい世界でただただ誰かの声を探し求めた毎日、不安の海にただ1人小船を浮かべて漂うような毎日。
それらすべてを、うんうんと頷くヨレヨレの優しい表情が押し流し消し去っていく。
「うちら……もう友達かな?」
僕は照れ笑いしながらヨレヨレに尋ねた。
「もちろんよ、最初に同志って言っただろ。あらためて乾杯だな、こりゃ。」
僕たちは2つのグラスを合わせ「乾杯。」と声を重ね合わせた。