鐘の鳴るとき
第三章
街を彷徨い始めてから1、2時間は経っただろうか。
温かかったおでんはすっかり冷めてしまい、夕暮れだった空は銀色の星がちらほら輝く夜空へと変わっていた。
暗くなった通りに人影はなく、ときどき走り抜ける車の音と冷たい風の音以外は自分の足音が響くばかりだった。
おでんとお酒の袋を持つ指先は冷たく固くなり、しばらく歩いた足は重く鈍い痛みを訴えている。
帰ろうと思ったが、暗過ぎてどちらが自分の家の方角かわからなくなっていた。
とりあえず一休みしてこの冷たいおでんと酒を飲んでしまおうと僕は人の気配のない公園に足を踏み入れた。
キリンの首をイメージした滑り台が中央に、あとはブランコと砂場しかない簡素な公園。
僕は砂場の横にある木製のベンチに腰掛けた。
おでんを取り出しベンチに置くと、袋からビールを取り出して缶を開ける。
冷たいビールと寒気が混ざって口から胃へと流れ込んでいく。
そのまま上を向けば、永遠に広がる黒い夜空、点々と光る星たち、そしてぼやけた光を放つ銀色の三日月。
僕は一瞬孤独や惨めさすべてを忘れて不思議な高揚に包まれた。
だがそれも吹きつける冷たい風によってたちまち惨めな現実へと引き戻されてしまう。
そんな現実から逃れるようにビールを飲む手は速度を上げていった。
ベンチの脇で潰されたビール缶が2個並んで落ちている。
おでんは半分ぐらい食べただろうか。少し酔いがまわってきた。
突然笑いがこみ上げてきたかと思うと、次の瞬間にはどうしようもなく悲しくなり涙ぐむ。
そしてこんな場所でも今年のことを思い返したりする、大晦日の力の偉大さに感心したりする。
何一つこの手につかめない一年だった。
つかんだと思ったものもすぐにさらさらと指の間から零れ落ちていった。
しまいには自分が立つ足場ごと深い海の底へ沈んでしまった。
そして光の届かない深い深い海の底で誰かの声を探し続けた。
そんな一年、その延長線上にこの寂れた公園で1人飲んでいる自分の姿が浮かび上がる。
滑り台のキリンが優しそうな憐れむような目でそれを見つめていた。
3本目のビールに手を伸ばしたときだった。
背後に視線を感じて僕は振り返った。
すると目の前に1人の中年の男が立っていた。
男はよれよれのジャンパーを着て黒いニット帽を被り、その間からのぞく顔は全体的に赤みを帯びていてまばらに生えた髭と黒目がちな小さい目が印象的だった。
男は欠けた前歯で笑みを作ると話し始めた。
「にいちゃん、こんなに寒いのになにやってんの?」
そんなの見ればわかるだろ、という言葉を飲み込んで僕はこの男、以後ヨレヨレと呼ぶようにする、に答えた。
「いや、飲んでるだけですよ。なんか1人部屋で飲んでるのも沈んじゃってさ。」
ヨレヨレは大声で笑い始めると僕の肩を軽く叩いた。
「そうなんか、いやさっき道歩いてたら、公園にぼぅっと人影いるからびっくりしたのよ。大晦日から出た〜ってな。」
と言うとヨレヨレは両手を使って幽霊の真似をした。
「でもまあよかったわ。大晦日から幽霊じゃ年越しも気分悪いからねえ。」
「まあ、幽霊は年越せないですからね、死んでるし。」
「そりゃそうだな。そんなことよりにいちゃんは強いんか、これ。なんかいっぱいあるけど。」
とヨレヨレはベンチに置かれたビールやワインの数々に目配せした。
「けっこう強いと思いますよ。記憶とか飛んだことないですもん。」
「おっ、猛者ってやつだな。そんな白くて細いのに。実は俺も家で飲んでたのよ。でも1人で飲んでると寂しくなってね、もうだめ。とりあえず外に出てきたのよ。そしたら兄ちゃんが。」
そう言われるとヨレヨレの赤らんだ顔も納得いくし、彼の口からはほのかにアルコールの匂いが漂ってくる。
「じゃあ仲間みたいなもんですね。」
「そう、仲間、いや同志っつーやつだ。そうだ、せっかくだし一緒に飲もう、なあ。」
突然の告白に僕は答えを詰まらせた。
「いや、う〜ん、飲むってどこで?」
「うち、俺のうちだよ。こんな寒いところでずっと飲んでたら凍死しちまうぜ。」
「いや、おじさんの家ってなんか悪いですよ。」
「いいんよ、何にも気にしないで。誰もいないし、何もないけど。さっきうちらは同志だって言っただろ。」
まわりはじめた酔いとヨレヨレの赤ら顔から滲み出る人柄の良さ、そして何より久しぶりに人間と会話した興奮から僕の答えはほぼ決まりかけていた。
「わかったよ、おじさんちってどこなの?」
「うちはすぐそこ。あの信号を右に曲がった先の一つ目の道を入った先だよ。」
僕はおでんとお酒を片付けると、ふらふらと千鳥足で歩くヨレヨレのあとを追いかけた。