ラストメモリー
彼は自分がどんなに残酷な問いを発しているのかも気づかずに、空っぽの両手を見下ろした。それほど彼にとっては苦しいことなのだろうと永遠は思った。
「どんなことも抱えて生きていくのだ。痛みも、苦悩も、時と共に膨れ上がっていく。決してなくなることはないと知りながら、それでもただ時の流れに身を任せるしかない」
目に見えない苦悩を握りつぶそうとするようにクリスチャンは両手を握り締めた。
「わたしは二度、女を愛したことがある。一度目は恐らく三百くらいのころで、相手は司祭の娘だった。わたしたちは愛し合っていたが、彼女はわたしのようなものに惹かれる自分を憎んでいた。わたしと共に生きようとはしなかった。ヴァンパイアになることなど敬虔な彼女には到底受け入れられるはずもなかったのだ。怪物になってわたしと永遠に生きるよりも、彼女は死を選んだ」
クリスチャンは嘲笑う声を漏らした。そして感情のこもらない平坦な声で続けた。
「二度目はその百年後くらいだろうか、あまり正確には覚えていない。そのころわたしは宮廷でジョセフィーヌという女に出会った。金色の髪に青い瞳の美しい女だった。わたしは彼女に自分がヴァンパイアであることを告げずに近づいた。そうすれば自分もヴァンパイアであることを忘れ、共に暮らせると思ったのだ。しばらくはフランスで屋敷を構え、幸せだった。だがすぐに所詮わたしは怪物でしかないのだと思い知らされた。そのころヨーロッパではヴァンパイアを題材にしたゴシック小説が出回り、ヴァンパイア狩りが盛んに行われていたのだ。ある日、どこから嗅ぎつけたのか、ハンターによって屋敷に火が放たれた。火の回りは速く、彼女は屋敷に取り残されてしまった。わたしは彼女を助けたい一心で空を飛び、救い出した。彼女はそうは思わなかったようだが」
クリスチャンの目は内に向けられ深い闇と化している。今の永遠に出来るのは黙って耳を傾けることだけだ。
「正体に気づいた彼女はわたしを汚らわしい怪物と罵り、怪物を愛せる者などいないと言った。彼女は・・・一度とて、わたしを愛したことはないと。そして剣でわたしの心臓を串刺しにしようとしたのだ。無理だとわかっていながら、わたしは抵抗せず刃が鼓動を止めてくれるのを待った。ただこの世から消えてしまいたかった。だがその機会は失われてしまった。わたしを狙ったハンターの弾丸のひとつが彼女に当たったのだ。たった一つの弾で彼女は死に、無数の弾を受け、火傷を負ったわたしは生き残った―この怪物の血のせいで」
永遠がおずおずと手を重ねた。小さな手がきつく握ったこぶしをそっと開かせる。
三日月形の傷からは鮮血が溢れていたが、その最中にも傷口は塞がり、その証は筋を引く赤い血だけになる。
「あなたは怪物などではないわ。ほかの生きものと同じように怪我をすれば血が流れるもの」
永遠は白いナイトガウンの裾をクリスチャンの血で穢した。
「わたしにとって死とは願っても決して手に入れることの出来ない贅沢だ。人間の作り出した空想物語のように、灰になれればどんなにいいか。生き物はみな死を目指して生きている。死ねぬものはほかのものの死を受け入れ、そのもののすべてを抱えて生きてゆかねばならないのだ」
意図せず潤んだ瞳で彼女を見つめる。
「だが君がいなくなった後、わたしは君を抱えて生きてはゆけまい。もう二度と、そんな想いを抱えて生きることなど」
喉の奥の熱さを和らげるために苦労して唾を飲み込む。それでも出てきた声はか細く、かすれて聞こえた。
「死ねる君が恨めしい。もう決して、人と関わるまいと、そう思っていたのに。君に出逢ってしまったことが恨めしい。君のすべてが恨めしい」
涙が溢れた。
だがそれは永遠のものだった。
永遠はクリスチャンを胸に抱き寄せると、頭を抱えて幼子にするようにそっと艶やかな髪を撫で続けた。
その間も永遠の瞳からはとめどなく熱い奔流が頬を伝っていた。
彼は眠っていた。
クシャクシャになったキルトをぎゅっと握り締めて。そうすれば自分の手から滑り落ちてゆく大切なものをつなぎとめておけるとでも思っているかのように。
眠っていても苦しんでいるのね。
永遠は彼の皺の寄った眉間をそっと撫でた。
せめて夢の中では彼の痛みを癒してあげたい。彼は私の痛みや苦しみを受け入れようと言ってくれた。ならば私も彼の痛みや苦しみを受け入れ半分にしてあげたい。
だけど私は彼をさらに苦しませる存在なのよ。
血で汚れたナイトガウンをなびかせベッドを出ると、静かに服を着替えて、暗い眠りに包まれた館に背を向けた。
外に出ると肌にひんやりとした空気が触れたが、気にすることなく脚を動かした。朝もやの中に浮かんだ薔薇の蕾が黒ずんで見える。
どこからともなくブリスが現れ、景色を楽しむこともなく足音だけの会話で森の湖に向かった。日課となった二人だけの朝の散歩。
ブリスが先にお気に入りの場所に寝そべった。永遠は湖のそば、ブリスの温かいわき腹にもたれかかり空を見上げた。
今日は珍しく青空に白い雲が遊んでいる。
スコットランドにも秋晴れってあるのかしら。あたりはもう秋だった。木々は色を変え、そのからだから葉を落としていく。辺りにはそのかけらが散らばり、地面も秋に染まっていた。
ブリスの尾が腹に載せられる。そっと柔らかな毛を撫でてやると、満足気な声を漏らして伸ばした前脚に頭をのせた。
クリスチャン以外のものは皆、姿を変える。この森も、あの館も、そしてブリスや私も。いずれは皆朽ちていく。そしてそれらは大地に返り、そこから新たな生命が芽吹く。
だが彼は死ぬこともなく生まれることもない。
白い雲はゆったりと流れ、やがては視界から消えていく。そしてこの青い空からもいずれはなくなってしまうことを私は知っている。
彼と共に過ごしたいと思うのは自分勝手なことなのだろうか。ほんの二週間前、彼はどんな気持ちで私の取引を受けたのだろう。彼にとって何の利点もない取引だと今ならわかる。それどころか、更なる苦しみを背負い込むだけだと。人と関わらないと決め、もう二百年も一人孤独だけを相手にここにこもっていたのに。
視界の隅に動くものを捉えた。
そちらに顔を向けると、リスが木の実を頬にいれて立ち上がり、辺りを見回していた。そしてせわしく木の実を拾うと、獲物でいっぱいの重そうな頬を抱えながら冬に備えて走り去って行った。
残された時間は残酷なほどに短い。その中で私は何が出来るだろう。彼に何をしてあげられるだろう。
ポケットに手を入れて彼に貰った贈り物を取り出した。
ガラスに青空が透け、白い砂浜の季節はずれな海を思わせる。
彼は渡しづらそうだったが永遠は気にならなかった。儚いそれは、彼が言ったように自分のものだと思った。
時は止まらない。有形の時は残酷にも一本の線となり滑り落ちてゆく。
彼のために生きたい。
彼が望むなら、永遠にだって共に生きていきたい。
両親が死んでから生きたいとは思わなかった。死ぬことをさも当然のように受け入れた。
でも今は、心から生きたいと思った。
クリスチャンの様子がおかしい。