ラストメモリー
「そう! ブリスをお風呂に入れるつもりよ」
挑むように背筋を伸ばし、元々決めていたように言った。そしてまたそれが興味深いものであるかのように皿を凝視した。
「そうか。では無理をしないようにな」
クリスチャンは立ち上がると三人分の皿を手に取り、食器洗い機に入れた。
注意を向ける対象を奪われた永遠は、ブリスを見つめて横目で彼の様子をうかがっていた。
背を向けて部屋を出ようとした彼が急に足を止めた。
「永遠?」
こちらを向いたクリスチャンの眉はひそめられている。
びくっとして素っ頓狂な声が漏れる。
「はい?」
やっぱりごまかすことなんて出来なかったのね。永遠は息をつめた。
「薬を飲み忘れているぞ」
ブリスを風呂に入れるのは大変だ。
そのことに気づいたのはバスルームの戸を閉め、シャワーの栓をひねったときだ。
熱い湯が噴き出すと、ブリスはそわそわとバスルームを見回しだした。
まるで逃げ場を探しているようだわ。永遠は苦笑をもらした。バスルームは永遠一人には広すぎるほど広いが、大きなブリスと一緒だと少し窮屈に感じられた。
袖をまくり上げ、ブリスに向かって湯を噴射した。
「ワフッ!」
ブリスが驚きを吠え声で表した。
何か言いたげな表情でこちらを凝視すると、湯を浴びて小さくなった体を揺すった。
「きゃっ」
あたりに大粒の雨が飛び散り水浸しになった。
だが被害の大きさで言うと永遠が一番だった。スカートは濡れて脚に張り付き、薄い色のシャツは下着が透けている。
永遠は自分の有り様を見下ろすと、ブリスにチラッと目をやった。ブリスはグリーンとゴールドの不揃いだが美しい瞳をじっと永遠に注いでいる。
その視線に顔が熱くなった。
相手は動物じゃないの。何を恥ずかしがってるのよ。自分を叱咤すると、石鹸を手に大仕事に取り掛かった。
だがブリスの目はあまりにも人間的で意識せずにはいられない。
ブリスの濡れて暗くなった体から最後の泡を流し終えたときには、永遠は大雨に降られたかのようにぐっしょりと濡れていた。
バスルームの戸を開けながら言う。
「私もお風呂に入るわ、おまえのせいでびしょびしょだから。体は自分で乾かせるでしょ、上手にできるって披露してくれたものね」
入るのはあれほど嫌そうだったのにブリスは出て行こうとしない。不揃いの瞳でただ永遠を見つめている。その視線は「服を脱がないのか?」と言っているようだ。
「脱がないわよ。おまえが出て行くまでは」
それでも出て行こうとしない。
永遠は目を細め、シャワーの栓をひねった。
「さあ、行きなさい」
ブリスはとんでもない裏切りだと言いたげに牙をむき出すと、のっそりと戸から出て行った。
戸を閉めて念のために錠を下ろした。
「まったく、何てものを拾ってきたのかしら」
シャワーから噴き出した熱い湯とともに、小さなつぶやきは呆気なく排水溝に吸い込まれていった。
夜中になってもクリスチャンは戻ってこなかった。
スペインじゃなくて北極に行ったのかもね。
アハハ、面白い冗談。
昔の貴族が使っていたようなソファに胡坐をかき、クッションを絞め殺さんばかりに腕に抱いた永遠は、うるさい心の声と戦っていた。
険悪な雰囲気を敏感に感じ取ったブリスは、懸命にも食事を済ませるとさっさといなくなっていた。
目の前の柱にはクリスチャンの肖像画がかかっていた。それは長い月日に侵食されて独特の色合いをみせている。
描かれた彼は十代に見えるがきっと三百歳くらいなのだろう。
動かない彼を睨みつける。
もう寝る!
彼の心配なんてする必要ないじゃない。今がたとえ夜中だとしても彼はヴァンパイア。夜の生き物だもの。
クリスチャンの部屋のノブに手をかけようとして思いとどまった。
どうしてこんなに広い家なのに、わざわざ彼の部屋で寝ようとしてるの?
むすっと廊下を歩き回り、彼から出来るだけ遠い部屋を選んだ。ベッドに入ると目を閉じて、一人悶々とした時間をすごした。
館に戻ったときにはすでに東の空が染まり始めていた。
永遠が起きて自分を待っていると思うほど自惚れてはいない。だが彼女が自分の部屋にいないというのは気に食わなかった。
気持ちとは裏腹に眉一つ動かさず、クリスチャンは生命の感じられない自分の部屋をあとにした。
目を閉じ耳を澄ますと、ゆったりとした小さな鼓動と、大きく力強い鼓動が聞こえた。
小さな鼓動を選んで、音を頼りにクリスチャンは自分の部屋から廊下をかなり歩いたところにあるドアの前に立った。目を細めて、自分が通ってきた方角を見た。偶然なのか、ここは彼の部屋から一番離れたところにある。永遠に尋ねなくても、なぜその部屋を選んだのか彼にはわかる気がした。
ドアに向き直り、必要もないのにそっと足を踏み入れた。
永遠は眠っていた。
柔らかなキルトをかぶり丸くなっている。見えるのは乱れた黒髪が少しだけ。
ベッドの横に木製のイスを運んできて腰を下ろすと、呼吸に合わせて微動するキルトの塊を見た。
クリスチャンは自分の願望に任せてそっとキルトをめくり、彼女の美しい顔をあらわにすると手の中の箱を弄びながら寝顔を見つめた。
この目に彼女を焼きつけておきたかった。そのことに耐えられる強さが彼にあるのなら、彼女がいなくなった後もその姿を眺められるように。
本当にそんなことが可能だというのか?
彼は自問した。
永遠のまぶたが震え、視線が強すぎたのだろうと申し訳なく思っていると、ぼんやりした瞳が彼をとらえた。
「帰ってきたのね」
先ほどまでは永遠から視線をはずすことなど考えられなかった。
だが今は気後れして手の中の箱に視線を落とした。
「ああ…君にその、あげたいものが」
永遠がベッドに起き上がった。彼女のために用意した白いナイトガウンが良く似合っている。
「ああ、だが、その―」
痺れを切らしたのか途中で彼女が手を差し出す。
彼は観念して箱を手渡した。
「砂時計ね」
精巧な細工の施された土台に、白い細かな砂の入ったガラスがはめこまれている。
「きれいだわ」
彼女の手の中で砂がさらさらと滑り落ちていく。
その様子は美しくも儚い。
彼女の残り少ない時が、無常に失われていくことを暗示しているようだ。
いまさらながら、何とむごいものを彼女に渡してしまったのかと恐ろしくなる。
「すまない。いらなければ捨ててくれてかまわない。ただ店先で見かけて、それは君のものだと思ったのだ。それで…」
永遠は首を振って話を遮り笑いかけた。
「とっても嬉しい、本当に。ありがとう」
そう言う永遠はとても美しかった。美しすぎた。
「君は人間だ。そしてわたしはヴァンパイア。我々は決して共に生きてはゆけぬ」
重い言葉を少しでも軽くしようと、クリスチャンははるか昔に見た若者の動きを真似て肩をすくめた。
永遠は砂時計を手に黙って聞いていた。
「永遠に生き続けるとはどういうことかわかるか? 死なぬということがどういうことか、君にはわかるか?」