ラストメモリー
永遠はいぶかしんでいた。今まで優しい彼しか知らなかった分、余計にクリスチャンの機嫌の悪さが気にかかった。
最初は気持ちをさらけ出してしまったことが気恥ずかしいのだろうと思っていたが、それが数日ともなると心配せずにはいられなかった。
クリスチャンの思いを聞いた翌朝、ブリスとの散歩から戻り、いつものように朝食を用意した。そしていつものように三人で食事をした。
だがいつも通りなのはそこまでだった。
普段のクリスチャンなら眉をひそめはすれど何も言わなかったのに、その日はブリスの食べ方にいちゃもんをつけ、ブリスをかばった永遠にもあたった。
そして彼は食事を残そうとした永遠に食べろと初めて声を荒げ、その直後に血相を変えてどこかへ行ってしまったのだった。
それから永遠は初めから自分の分は食事を用意しなくなった。もともとあまり食べていなかったのだから大した違いはなかったが。
こうして雨粒の滴る木の下で、寒い思いをしながらブリスに寄りかかっているのもそのせいだった。
今日はとりわけ彼は虫の居所が悪かった。永遠は慌てて雨のそぼ降る森へと、上着も、傘さえも持たずに飛び出した。
彼は私のことも不愉快な女だと思い始めたのかしら。だとしても私には日本に帰る手段も、帰りたいと思う理由もない。クリスチャンのいない場所に行く理由など。
だからせめて彼が館から出なくて済むように、永遠は一日のほとんどをこの森で過ごしていた。
頬に一粒、温かい雨が落ちた。永遠はそれを拭いもせず、ただ流れるままにした。
ここ数日してきたように薄いショールにくるまり湖を見つめた。湖はいつも変わらずそこにあって永遠の心を慰めた。朝から晩までずっと眺めていても飽きることはない。
それは永遠に、常に違う姿を披露した。今日は雨粒が水面を叩き、波立つ様子は何かに怒っているかのようだ。
「飽きないか?」
すぐ隣から聞こえた声に悲鳴を上げた。
美しい。この一言に尽きる男が永遠を見ていた。
その目はグリーンとゴールドで、ドラマッチックに一房額に垂れかかるカールした髪は、艶のあるシルバーだ。だが一般に思われるような老けた印象は与えず、この男にはとても似合っていた。
クリスチャンをモデルと例えるなら、この男はギリシア彫刻だ。完璧に整った顔立ちは神の創造した最高傑作。
しかし男は裸だった。
慌てて目を逸らし、ショールを投げる。
「これを巻いて!」
後ろでさらさらとした音と、そんなに怒らなくてもとつぶやく声が聞こえた。頃合を見計らってためらいながら後ろに視線を向けると、男は背が高く、ショールは必要な部分を辛うじて隠しているだけだった。
それでも落ち着きを取り戻し、改めて男を眺めた。つくづく美しい男だ、罪深いほどに。不揃いの目もやはり彼の美しさに神々しさを添えるばかりだ。
「俺は気持ち悪いか?」
男の声に我に返った。ボーっと惚けたように男を見つめていたことに気づいて頬を染める。
「なんですって?」
容姿に見とれていて男の言葉が頭に沁み込むまでに時間を要した。
「俺はおまえを気持ち悪くさせんのかって聞いたんだ」
男は眉を寄せ不安そうだ。
この男には目がないの? これほど美しいものなどいないだろうに。
目。そこで気がついた。
「あなた、ブリスと同じ目だわ!」
あたりを見回す前から結果はわかっていた。
ブリスはいなくなっていた。
「信じられない! あなたブリスなのね?」
「あぁ」
ブリスが悲しそうに件の目を逸らす。
永遠はブリスの手を掴んだ。
「本当に自分が気持ち悪いと思ってるの? あなたほど美しいものを見たのは初めてよ。特にその幸運の瞳が。あなたが狼のときにも言わなかった?」
美しい瞳がこちらに向けられた。
「本当に? 俺は美しいのか? 気持ち悪くないのか?」
これほど神に愛された容貌に不安を持つなんて、一体何があったの?
「本当よ、あなたは美しいわ。どうしてそんな風に思ったの?」
その答えは得られなかった。
ブリスが掴んでいた手をいきなり引っ張った。
ブリスの裸の胸に倒れこむと、そのままぎゅっと抱きしめられる。
「好きだ」
耳元で囁かれた言葉は熱かった。
もう雨粒が水面を叩く音も、木の葉がこすれる音も聞こえない。ブリスのか自分のかわからないドクドクと騒ぐ鼓動の音しか。
「また永遠の下着姿が見たい。できれば何も着てない姿が」
永遠の唇からうめき声が漏れる。彼の胸を押して温かい腕から逃れた。
「わざとお風呂で水を撒き散らしたのね、私を濡らすために」
「あんなチャンスを逃すわけねーだろ」
にやっと笑ったブリスの口から白い犬歯が覗く。その様子に彼が狼の姿をしていたことを思い出した。
「あなたは何者なの? 狼、それとも人間?」
ブリスが永遠の髪を弄ぶ。
「両方。俺はウェアウルフだから」
「ウェアウルフ?」
髪を乱されたくないだけだと、心の中で言い訳をしつつブリスの手を掴んだ。
ブリスが片眉を上げて動きを阻む永遠の手を見た。
「言っとくけど狼男と一緒にすんなよ。あいつらは満月がねーと何にも出来ない輩だ。ウェアウルフは自分の意思で姿を変えられる」
ブリスが指先で永遠の手の甲を撫でている。
自慢げに口角を上げるブリスは無邪気であり、やはり美しかった。狼でいてくれる方が助かるわ。
ハッ、ハクシュン!
気づけば二人とも濡れそぼっていた。
「寒いんだろ? これ使えよ」
ブリスが腰に巻いたショールを外そうとする。
「いえ、いいの! 気持ちは嬉しいわ。だけど―外さないで!」
金切り声を上げて手で顔を覆う。好奇心が頭をもたげないわけではなかったけど。
「じゃあこうするしかねーな」
急に温もりに包みこまれたと思うとまたブリスの腕の中にいた。
「どうしてあなたは私より―薄着なのに、暖炉みたいに温かいの?」
ここから逃れることは拷問に等しい。少しだけ自分を甘やかすことにした。
「永遠への愛が俺の中で燃えてるから」
永遠は目を閉じてあの時と同じ言葉を口の中でつぶやいた。
まったく、何てものを拾ってきたのかしら。
館の前で永遠は立ち止まった。
横にいるブリスを見て頭を悩ませる。この子に狼に戻ってもらった方がいいのかしら? クリスチャンは機嫌がいいとは言えない。それなのに半裸の美しい男を連れて帰ってブリスだと言っても信じてはもらえないだろう。クリスチャンがどんな反応を示すか神のみぞ知る、だ。
「ねえ、ブリス…」
「あいつのことなら気にすんなよ」
ブリスは中へ入ってしまった。ならばもうなるようにしかならない。永遠は胸を張って館に足を踏み入れた。
「永遠、雨なのにまた外へ行っていたのか? びしょ濡れではないか。早く着替えてきなさい」
クリスチャンはブリスを見ても何も言わず、永遠にだけそう言った。
「あの、クリスチャン、この人はブリスで実はウェアウルフだったの。それで…」
クリスチャンは揺るがぬ視線で永遠を射抜いた。
「着替えてくるんだ!」
ビクッとしてもごもごと謝罪の言葉を呟くと永遠は部屋へと駆けた。