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ラストメモリー

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 永遠の閉じられた瞳から涙がひとしずく流れ落ちる。クリスチャンはそのしずくを指先で受けとめ唇にあてた。
 それは彼の口に儚い悲しみを残した。
 「わたしも君を傷つけた。君が眠っている間、わたしは悔やんでいたのだ。エリカが君のことは遊び相手で、自分はわたしの婚約者だと言ったとき、わたしは君に何も言わなかった―怖じ気づいたのだ」
 視線を下げ、永遠の手の甲を走る青い血管を親指でなぞる。彼女は自分がどんな危険に身をさらしているのかわかっているのだろうか。
 「君がすぐにいなくなってしまうのがわかっていながら、心の中に入り込ませることが怖かった。だが自分を守るために、君を傷つけてしまった。君のことを、大切な存在だと言葉にしなければ心を守れると思ったのだ」
 クリスチャンは自嘲的な笑みを浮かべて、永遠の顔に目を戻した。彼女は煌めく瞳で見上げていた。
 「だが出来なかった。君はすでに、わたしの心を奪っていたから」
 ほっそりとした手を持ち上げ、親指に唇をあてた。
 「たとえ嫌がっても、君のことを壊れ物のように扱う。君が大切だからだ」
 今度は人差し指に優しい口づけを落とす。
 「もう無理に笑う必要もない。君の痛みや苦しみも、わたしも共に受け入れよう。君の苦痛が半分になるように」
 次に中指にキスをした。
 「君のしたいように、ふつうに生きられるようわたしが手を貸そう」
 そして薬指に。
 「愛しい人よ」
 最後に小指に。
 永遠は眩しい本物の笑みを湛え、掴まれていない方の手でシーツを持ち上げると、何も言わずに温もりへとクリスチャンを誘った。
 クリスチャンは隣に横たわり、彼女をどんな痛みからも守れるよう腕に閉じ込めた。
 「もう一度お眠り。愛しい人」
 初めて彼女を腕に抱き、寝顔を見つめた夜と同じ言葉を囁いた。
 クリスチャンが額に優しい口づけを落としたときには、彼女はすでに幸せな夢の世界に誘われていた。
 ずいぶん後に、永遠は一度クリスチャンを揺さぶった。彼はすぐに目を覚ました。
 「どうした? 気分が悪いのか?」
 「エリカは本当に婚約者なの?」
 少し怒ったような声に、彼は笑い声を漏らした。永遠の頭を自分の胸に抱き寄せ、朝になったら教えてあげようと言ってすぐに寝息をたて始めた。
 永遠は気になって眠れないと思ったのを最後に、彼の安定した鼓動にあやされすぐに眠りに落ちた。


 「さあ、話してちょうだい」
 永遠はクリスチャンの前に朝食のパンケーキを置きながら言った。
 「ベッドから出ていいのか? 食事ならわたしでも作れるぞ」
 「いいえ、もう平気よ。それにブリスは昨日食べられなかったんでしょう? この子は痩せすぎよ。たくさん食べさせてあげなきゃ」
 クリスチャンは狼を睨んだ。
 こいつのどこが痩せすぎなのだ? 大量の毛の下にはこれまたたっぷりと肉が付いている。
 どこからどう見ても健康そのものではないか。
 狼は永遠に置いてもらった彼の三倍の量のパンケーキを、涎を垂らさんばかりに凝視している。
 いや、すでに垂れている。
 クリスチャンは眉をひそめた。
 席に着いた永遠が召し上がれと言うと、狼は大急ぎでパンケーキに攻撃を仕掛けた。
 「で、いつまでも話さないつもり?」
 彼女は首を傾げてクリスチャンを見た。
 「いや、話す。君が食べたら」
 痩せすぎとまでは言わないが、永遠はもう少し肉をつけるべきだ。
 昨日もほとんど食べていなかった。わたしが注意していなければすぐにでも痩せ細ってしまうだろう。
 彼女は忌々しげに自分の皿を見下ろして、パンケーキを小さく切り分けるとそのうちのひとつを口に入れた。
 「食べたわ。早く話して」
 クリスチャンはパンケーキを大きく切ると自分も一口頬張り、どこから話そうかと思案した。
 「エリカは確かにわたしの婚約者だ」
 探るように永遠を見つめたが、彼女は眉を上げ、続けるように促すだけだ。
 「だが、それは都合がよかったからだ。わたしがこの館に―こもるようになってから、母がさまざまな女を送り込んできたのだ。どの女も不愉快な者ばかりだった。一日中泣きわめいていたり、自分のことばかりを飽きもせず話し続けたり」
 そこでパンケーキを口に入れ咀嚼してから続ける。
 「わたしは自分の館にいられず気が狂いそうだった。何故自分の住処を侵されねばならない? そんなとき母がエリカをよこした。彼女は幼馴染だから、わたしがどんなことを嫌がるか知っている」
 そこまで話したところで彼女が片手を挙げた。
 ブリスが永遠の脚を鼻で突き、空になった皿を足で引っかいている。彼女はパンケーキ一口の代償分しか減っていない自分の皿をブリスに与えようとした。
 「待て、それは君の分だ。食べなさい」
 クリスチャンは立ち上がり自分の皿をブリスの前に置いてやった。
 ブリスは量が少ないことか、もしくは彼の食べかけだということが気に食わないのか、小さく唸りながら睨みつけていたが、彼が背を向けると諦めてパンケーキを胃袋に収め始めた。
 永遠は自分の皿に載っているパンケーキをつつきまわしている。
 クリスチャンがそれをじっと見ているのを視界におさめた彼女は、観念してパンケーキを口に運んだ。
 ゆっくりと噛み、咀嚼する。
 「それで、エリカが幼馴染で自分のことを理解しているから、婚約者にしたというの?」
 自分からクリスチャンの意識を逸らそうとしてそう言ったのがわかった。
 クリスチャンは永遠をじっと見つめたまま言った。
 「ほかの女とは違って、わたしが半狂乱にならなかったからだ。それで母が勝手に婚約者にした」
 テーブルに肘をつき、右手の指先に頬を乗せる。そのアンニュイな仕草と同様、その事実さえもたいした問題ではないと思っているような口調だった。
 「わたしは次から次へと女を送り込まれるのにうんざりしていたから、婚約者が出来れば煩わされずにすむと思ったのだ」
 話している間に永遠が、ブリスにこっそりとパンケーキを食べさせていたが、半分ほどは平らげていたため気づかないふりをすることにした。
 「そう」
 会話が途切れた。
 気まずい沈黙が広がり、ブリスがムシャムシャとパンケーキを咀嚼する音だけが大きく響いた。
 昨夜ベッドを共にしたのが嘘のようだ。
 眠っただけだが。
 クリスチャンは自嘲的な笑みを浮かべた。


 ヴァンパイアの笑みだわ。
 永遠は警戒してクリスチャンを見つめた。
 「君は今日、何をするつもりだ? わたしは少し―出かけてくる」
 永遠は心を悟られないように、ブリスのおかげで空になった自分の皿を凝視した。
 少し出かけるですって?
 前にそのようなことを言ったときはここに来るつもりだったのよ。今度はスペインにイサベルなんて名前の愛人でもいるんじゃないの?
 だけど、また嫉妬深い女のようなことを言って、彼を煩わせるわけにはいかない。
 我慢できずにチラッとクリスチャンに目をやると、いつもと変わらない落ち着いた様子でじっと永遠に視線を据えていた。
 慌てて皿に視線を戻す。
 「えっと…」
 視界の隅にゆさゆさと揺れる銀の尾を捉え、溺れかけの人が藁をも掴むように永遠はブリスにしがみついた。
作品名:ラストメモリー 作家名:Lucia