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ラストメモリー

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 だが見なくてもクリスチャンが後ろで身構えるのはわかった。
 「クリスチャン、大丈夫だからこの水を換えてきてくれない?」
 クリスチャンはしぶしぶ朱色の水が入った桶を手に取ると、狼に鋭い一瞥をくれ部屋を立ち去った。
 「やれやれ、やっと二人きりになったわね」
 永遠は微笑み、狼の背に手を置いた。
「どうしてかわからないけど、おまえを見たとき通じ合うものを感じたの。多分、おまえが諦めようとしてたから」
 狼の不揃いな目が光った。だが光の加減でそう見えただけかもしれない。
 狼の柔らかな毛を撫でる。
 「私もね、死ぬの。だけど別にかまわない。だって命あるものはみな死ぬのだから。ただそれが早いか遅いか、それだけのこと」
 永遠は手を止めて、クリスチャンの出て行った方を見た。
 「だけど今は、自分がわからない。会ったばかりの人と、その人には婚約者もいるのに、それなのにずっと一緒にいたいと思ってしまうの。三ヶ月なんかじゃなくて―永遠に」
 視線を下げ狼の美しい瞳を見た。
 彼にとって、私は何なのか聞く勇気もない。さっき森の中を歩きながら何度尋ねようとしただろうか。だが彼が私のことをなんとも思っていないと、直接彼の口から聞かされるくらいなら、何も知らずに悶々と死んでいく方がいい。
 「私は彼にとってただの…」
 狼の姿がぼやける。
 滲んだ狼が手に頭をすり寄せてきた。
 「なぐさめてるの?」
 永遠は輝く瞳で笑った。
 クリスチャンが永遠を驚かせないために、わざと足音を立てて広間に入ってきた。
 「何がおかしいのだ?」
 口元に小さな笑みを漂わせた永遠は、いぶかしむクリスチャンの方に体をひねった。
 「生きるということよ」


 それからの一週間、狼の傷は瞬く間に癒え、足の深い傷以外の包帯は取れた。
 「ブリス、ゆっくり食べなさい」
 テーブルについた永遠は、椀ごと平らげそうな勢いでスープを舐めている狼を見下ろして言った。
 「そいつはオスだぞ。ブリスというのは女の名のように思えるが。奇妙やガッツキという名の方がよかったのではないか?」
 クリスチャンはスープの入った椀にスプーンを置くと、視線は狼に据えて永遠に言った。
 不揃いの目の大きな狼を足下にはべらせた永遠は、異教の女神のようだ。
 永遠はほとんど手をつけていない椀を押しやった。
 「そんなことないわ。ブリスは奇妙なんかじゃないもの、とてもきれいな目だわ。まぁ、ガッツキというのは―」
 永遠がチラッと足下を見下ろすと、狼が空になった平たい椀には目もくれず、床に飛び散ったスープを一心不乱に舐めていた。
 「悪くないかも」
 永遠はブリスの空になった椀を取り上げると席を立ち、鍋のところへ行った。
 「だけど私、オッドアイのことをあなたの図書室で調べたの。日本では金目銀目といって、幸福を運ぶそうなの。だから『無上の幸福』という意味の名前にしたのよ」
 椀にスープをすくい、少し考えてからふちのすぐ下まで注ぎ足した。
 それを持って席に戻ろうとしたとき景色が揺らいだ。
 シンクの端を掴もうと手を伸ばしたが、その手はむなしく空を掴んだだけだった。
 ふちからこぼれたスープが手に熱い。
 「永遠?」
 二重にぼやけた彼の表情には不審がありありと表れている。
 ふらつきながら揺らぐ視界を定めようとまばたきを繰り返し、彼の顔を凝視する。彼がはっきりした輪郭を取り戻した。
 「なんでも、ないわ」
 そう言って一歩踏みだしたとき、闇がすべてを支配した。


 痛みに悲鳴を上げ、永遠は膝からくずおれた。
 スープは辺りにこぼれ、床に落ちた椀には三分の一も残っていない。
 「永遠っ!」
 クリスチャンが目にも留まらぬスピードで永遠の横に移動し、彼女を抱き寄せた。
 それと同時にブリスは二人のところへ駆け、スープには目もくれず二人の周りをそわそわと歩き回った。
 「永遠、どこが痛むのだ? 医者へ行こう」
 クリスチャンは口早に言い、永遠を抱いたまま立ち上がった。
 永遠がクリスチャンの服を握り締め、聞いている方が胸をかきむしりたくなるような喘ぎ声を漏らす。
 「薬、かばん、の中。あなたと、会っ、た日の…」
 体をのけぞらせ痛みに震えると永遠の言葉が途切れた。
 だがクリスチャンには十分だった。
 永遠をスープに濡れていない床へ運ぶとそっと下ろした。ブリスに彼女を見ていろと言い、永遠にさっと視線を走らせる。
 「わたしが助けてやる」
 クリスチャンは飛び出した。
 

 彷徨っていた思考が途切れると、あたりは薄暗く今が朝なのか夜なのかさえわからない。彼好みの日の光を遮るカーテンが今は不愉快だった。思考を妨げた原因に目を向けると永遠が目を開き、手を取り続けていたクリスチャンの手を弱々しく握り返していた。
 「すまなかった。気づいてやれなくて」
 永遠がささやかな笑みを浮かべた。
 「あなたのせいじゃないわ。私、あなたと出逢ってから、薬を飲まなきゃいけないのを忘れてた」
 クリスチャンが出せる最速のスピードで飛び、永遠の家から取ってきたかばんを彼女はチラッと見た。
 彼の部屋のベッドに横たわった永遠はとても小さく、少しでも目を離せば消えてしまいそうなほど頼りない。
 クリスチャンは永遠の冷たい手をさすりながら互いの視線を絡ませた。
 「君は自分をないがしろにしすぎだ。あいつには焼きすぎなほど世話を焼いて、わたしにも毎日三食飯を作ってくれている。だが自分には何をしてやっている?」
 クリスチャンは首を振った。
 「痛めつけているだけだ」
 永遠は口元だけに、それとわかるかわからないか程度の笑みを貼り付けている。
 「ごめんなさい。だけど傷つけているのは自分だけだわ。ほかの人を傷つけることはない」
 彼女が感傷的な気分になっているのがわかった。
 「何が言いたいのだ?」
 永遠はクリスチャンの目をかすめると、視線を避けた。
 「私の両親は私が小さいときに死んだの。私には痛みや孤独だけを残していなくなった。その後、私は親戚に引き取られたわ。叔父夫婦は自分の子のようにかわいがってくれたけど、それは私が親を亡くしたかわいそうな子だから。そう思われないようにいつも笑っていても、周囲は私のことを傷を負った壊れ物のように扱うのよ。私は望んでなどいないのに。私はただ普通に生きたかっただけなのに!」
 最後は心が叫びを上げ、今まで表せなかった苦しみが怒りとなって噴き出した。
 言い終えると、力を使い果たしたようにぐったりとベッドに沈み込んで、思わずさらけ出してしまった痛みを隠すために目を閉じた。
 「いや、君は間違っている」
 クリスチャンは永遠とは対照的に静かに語りかけた。
 「人は知らず知らずのうちに傷つけあっている。たとえ意図していなくとも、相手を傷つけずにはいられない生き物なのだ。君は自分以外は傷つけていないと言ったな。ならば君が苦しむ姿を見て、わたしやブリスが傷ついていないとでも? 君が…」
 一瞬詰まりながら続ける。
 「…死んだときに、痛みや孤独が我々の中に残らないとでも言うつもりか?」
作品名:ラストメモリー 作家名:Lucia