ラストメモリー
考えているうちに開けたところに出た。周りを木々に囲まれたそれほど大きくない湖があって、近くには小さな小屋が建っていた。
湖を覗き込むと、透き通った湖面に自分が写った。
鎖骨ほどの長さの黒くて少し波打った髪。白くて少し面長な輪郭。口も鼻も整ってはいるが、特に人目を引くほどではない。目は長いまつげに縁取られて黒く大きく、深い悲しみを湛えていた。
湖面から目を離し座り込んだ。自分の腕でひざを抱え、前後に小さく体を揺する。
エリカの言葉は正しかった。だからこそ胸が痛んだ。
喉の奥から小さな声が漏れたとき、背後に視線を感じた。
振り向いたが何も見えない。
だが音が聞こえた。小枝が折れる音と木の葉がこすれる音。
そして獣のうなり声が。
クリスチャンは部屋を飛び出した。一瞬で館の外に出ると、さっとあたりを見回した。
どこにいる?
耳を澄ましたが何も聞こえない。
くそっ、遠くへは行くなと言ったのに。
だが永遠のせいではない。わたしがいけないのだ。彼女は傷ついていたのに一人で行かせた。彼女にとっては不慣れな土地で、危険だと知っていながら一人にした。
今さら悔やんでも仕方がない。一刻も早く彼女を見つけなければ。あたりに目を走らせ彼女の行きそうな場所を探す。
―森。
クリスチャン自身も一人きりで考え事をしたくなると、森にある湖へ行く。彼女は湖があることは知らないが、森に入ったのならきっと見つけているだろう。
クリスチャンはさっと飛び上がった。
永遠は獣を見つめた。それは灰色というには明るすぎる毛色をしており、右が緑で左が金の目に、鋭い爪と牙を備えた大きな狼だった。
狼は右の後ろ脚を引きずり唸りながら近づいてくる。
身の危険など意にも解さず、永遠は狼の珍しい瞳に魅入っていた。
きれいな瞳…。
「おまえは私を殺すの?」
永遠は言葉の通じない相手に囁いた。
狼は耳をピンと立て、永遠の声に耳を澄ましているように見えた。
唸るのを止めてゆっくりと近づいてくる。
永遠は狼の脚を見た。何か鋭いものでざっくりと引き裂かれたようだ。いつ怪我をしたのかはわからないが、いまだに血が溢れ、命が流れ出していく。
視線を狼の目に転じると、その中に通じ合うものを見て取った。
―死。
狼は死を覚悟していた。
さっきは離れていたから瞳の美しさにしか気がつかなかったが、今は永遠が手を伸ばせば触れられるほどに近づいてきていた。
「おまえは死んでしまうの? こんなに美しい目をしているのに」
永遠はゆっくりと手を伸ばしていった。
クリスチャンが湖の見える場所まで来たとき、彼女と、恐ろしく近くにいる二メートルはありそうな狼が目に入った。
クリスチャンはすばやく狼に体当たりし、彼女から遠ざけた。
狼が唸りながら体をひねる。クリスチャンはさっと体を離して鋭い爪を避けた。
「だめっ!」
永遠が彼らに急いで駆け寄ると、クリスチャンにさっと抱えあげられ湖の反対側に運ばれた。
「ここにいろ」
永遠が反論しようと口を開いたときには、彼はすでに狼とぶつかり合っていた。
なんて速いのよ。
永遠はもどかしく思いながら走って湖を回り、彼らのもとにたどり着いた。互いの牙や爪を避けては相手に突き立てようと繰り出している。
どうしたらいい? 間に割って入っても、またクリスチャンに向こうへやられてしまう。
覚悟を決めぎゅっと目をつぶると、大した怪我はしませんようにと祈りながらばったりと地面に倒れた。
うう、痛い。
だが肉のぶつかり合う音がやんでいる。薄目を開け様子をうかがうと、髪を乱したクリスチャンが脇にいるのが見えた。
「永遠、大丈夫か?」
クリスチャンの向こうに息を荒げた狼が見えた。
ぱっと目を開き飛び起きると、心配そうなクリスチャンにおざなりに転んだだけと言って狼に駆け寄った。最初に見たときでさえ血を流しすぎていたのに、クリスチャンと争ったせいでそこらじゅうから血がにじんでいる。
「大変! 手当てしなくちゃ」
永遠は誰にともなくそう言ったがクリスチャンが鼻を鳴らした。
「君を殺そうとした狼を助けるつもりか?」
「この子は私を殺すつもりなんてなかったわ。今はわからないけど」
クリスチャンに目をやると、髪は乱れ放題、服は破れだらけだった。だがヴァンパイアの能力のおかげで傷はすでにふさがっている。
まったく…。私が止めなかったらどちらかが死ぬまで傷つけあっていたわ。どちらが生き残るかは目に見えているけれど。
「この子を助けなくちゃ。このままじゃ死んでしまうわ。あなたの家に連れて帰りましょう」
クリスチャンは気でも狂ったのかといわんばかりに永遠を凝視し、口を開いた。
彼の口から拒絶の言葉が飛び出す前に永遠はたたみかけた。
「お願い、クリスチャン」
―お願い、クリスチャン
彼女が初めて自分の名を呼んだ。彼女は気づいていないのだろうが。
クリスチャンは狼を肩に担ぎ、これが散歩であるかのようにゆったりと館に向かって森の中を歩いていた。
彼女は狼の周りを飛び回り、どこそこの傷がああだのこうだのと騒いでいる。
クリスチャンは全く気に食わなかった。スコットランドに来てからはずっとそうだ。以前は安息の地だったのに、今では呪われた地のように感じる。次から次へと厄介ごとが舞いこんでくるのだから。
最初はエリカで次は狼だ。
今度は何だ? 何が起きても驚くまい。
クリスチャンはひとつ大きなため息を吐いた。
「ねえ、あなただけでも飛んで行った方がいいんじゃない? なんだかこの子ぐったりしてるわ。さっきまではあなたがわざとこの子を揺らして歩くたびに唸っていたのに」
永遠は足音もたてないでそっと歩けるくせにとつぶやき、横目でクリスチャンを睨んだ。
クリスチャンはにやりとした。
永遠がシチューを作った夜、クリスチャンは彼女を死ぬほど、いや、笑い転げるほど驚かせた。
「こいつと君を抱えて飛ぶことくらいわけはない。だが、大丈夫だ―こいつはただの狼ではない」
隣を歩く永遠を見下ろした。
「そんなこと見ればわかるわ。私にだって目はついてるんだから」
なんと、彼女は気づいていたのか。
「きれいな目よね、グリーンとゴールド」
クリスチャンは彼女から一瞬目を逸らし言った。
「ああ・・・。そうだな。左右で色が違う目を何と言うか知っているか?」
彼女が首を横に振る。
「オッドアイというのだ。オッドとは奇妙な、不揃いのという意味だ」
火のはいっていない暖炉の前で、永遠は狼の傷に包帯を巻いていた。クリスチャンは永遠にもしものことがないように、少し離れたところから狼にじっと視線を据えている。
だが永遠が狼の脚を持ち上げたりひっぱったりしても、狼は不揃いの目で永遠を見つめているだけだった。クリスチャンと争う前からあった脚の深い傷に、永遠は眉をひそめた。
「仲間の狼とケンカでもしたの?」
狼が話せないのはわかっていても尋ねずにいられなかった。
返事をするように狼がウゥーと唸ったが、それが『そうだ』なのか『ちがう』なのかはもちろんわからなかった。