ラストメモリー
大きな黒い洋館がひっそりと建っていた。洋館の周りには緑に萌える茂みがあり点々と赤い蕾がついている。それが近づきがたい様子の洋館にロマンチックな雰囲気を添え、不思議な魅力を漂わせていた。あたりに目をやると広大な土地がどこまでも続いており、所々に大きな石が転がっている。先のほうには緑の森が口を開け、不運な旅人を飲み込もうとしているように見えた。
彼にそっと地面に降ろされた後も、永遠はしばらく彼の胸にしがみついていた。
「本当だったのね」
「ああ」
濃い霧に包まれ雨の多いスコットランドと言えど、太陽がないわけではない。それでも彼はこうして屋外に立っている。
―ヴァンパイアは太陽に当たっても灰になることはない。ヴァンパイアになったばかりの者は別だが。
彼は空に飛び立つ前に説明を加えた。
―遮光カーテンは目を守るためだ。太陽に眠りを妨げられることほど、愉快なことはないのでね。
それならいったい何のために、遮光カーテンが必要なのかという考えを読んだように、彼はそう付け足した。
永遠はそっと彼の胸から手を離した。自分が捕まえていなくても、彼が消えることはないとわかったから。
「さてお嬢さん、我が館へようこそ」
彼に手を引かれ、永遠は館の中へと入っていった。
館の中に入ってから、予備のカーテンが置いてある部屋に来るまでの間、彼女からは時々吐息を漏らす音以外は何も聞こえてこなかった。
クリスチャンがカーテンを物色している間、彼女はあたりをぶらぶらしていた。彼は横目で永遠の様子をうかがった。
この部屋には何も見るものはなかろうに。
カーテン室と呼ぶその名の通りカーテン以外はなにもない。それでも彼女は楽しそうに、カーテンをなでたり裏返したり忙しくしていた。
「ねえ、このカーテン―」
彼女が館に入って初めて口を開いたとき、館のドアが壁にぶつかる大きな音が響き渡り、クリスチャンは体をこわばらせた。
永遠は、染めたものだとわかる真っ赤な髪と豊かな胸を揺らしてカーテン室に入ってくる女性を見つめた。
「クリスチャン!」
女性は永遠には目もくれず、彼の方へ歩いていくと大きな声で彼の名を呼び抱きついた。
ここが舞台だとでも思っているような大きな声ね、おまけに大きな胸も押し付けてる。永遠は苦々しく思った。
クリスチャンは体をこわばらせたまま女性を押しやった。
「エリカ、ここで何をしている」
エリカは真っ赤な長い髪を振り払い頬を膨らませた。
「せっかく来てあげたのにその態度は何よ?」
エリカはその効果も計算済みで胸の下で腕を組んだ。
「わたしが先に尋ねたのだ」
永遠は黙ったまま、にらみ合った二人を見つめていた。クリスチャンがエリカの胸に目を向けないことが嬉しかった。
だがエリカは気に入らないようだ。
「あなたに会いに来たんじゃないの。昨日は帰ってこなかったのね、この女と一緒だったの?」
エリカの見下すような視線が永遠に突き刺さった。
エリカは彼以外にも人がいることに気づいていたのね。
「ええ、そうよ」
永遠はお返しに冷ややかな視線でエリカを射抜いた。
ひるむ様子もなくエリカは鼻をうごめかせると、永遠の視線など温かいと思わせる凍るような笑みを浮かべた。
「あんたなんてただの遊び相手よ、それも一時だけの。あたしはクリスチャンの婚約者なの。もちろん彼から聞いてるでしょうけど」
永遠は目を見開き突っ立っていた。彼女の瞳には見た者に慰めてやらなければと思わせる痛ましさが宿っていた。
クリスチャンは彼女を自分の後ろにそっと押しやってエリカの視線を遮った。そしてエリカを睨みつけ強い口調で言った。
「やめろ! 用がないなら出て行け」
だがエリカは不敵な笑みを浮かべ、動く気はなさそうだ。
代わりに永遠がクリスチャンの横をすり抜けた。彼が手を掴んで引きとめようとすると、うつむいた彼女は小さな声で言った。
「少し外に出たいの」
クリスチャンは気に食わなかった。
外は危険だ―だがエリカの毒牙は届かない。
「遠くに行ってはいけない。それから気をつけるんだ」
永遠は何も言わず静かに部屋をあとにした。
永遠が部屋から出て行くと、エリカが近づいてきた。
「あなたがこのいけ好かない館にこもるのを止めたのはあの人間が理由? それもただの人間じゃない、死にかけの人間」
ヴァンパイアは人間よりも身体能力が高い。さらにヴァンパイアは一人ひとり特別な能力を持っている。たとえば彼はほかのヴァンパイアより素早く動くことができたし、エリカはほかより鼻が利いた。
だからエリカが永遠の病を嗅ぎつけても不思議はなかった。
「君にとやかく言われる筋合いはない。さっさとこの『いけ好かない館』に来たわけを話せ」
エリカは皮肉を解さなかった。
「なんだ、あなたもいけ好かないと思ってるんじゃない。あたしはあなたに会いに来たと言ったでしょう。あなたのお母様に様子を見てくるよう頼まれたのよ」
クリスチャンはうめき声を上げた。
母はいつまでたっても伴侶を見つけようとしない彼に、相手を見つけようと躍起になっていた。
「もう見ただろう。母上には元気だと伝えてくれ」
返事の変わりにエリカが鼻をうごめかせると口元がピクッとした。クリスチャンはこれが何か、大抵はよくないことを嗅ぎつけたときのエリカの癖だと知っていた。
「何を嗅いだ?」
エリカの顔に悪魔的な表情が広がった。
「あの女、思ったよりも早くお迎えが来たようね」
永遠はそっと館を出た。相変わらず外はどんよりとしていて、いつ雨粒が落ちてきても不思議はない。
今の気分にはぴったりだわ。
普段ならばきっと愛でていただろうが、点々とついた赤い薔薇の蕾にも心惹かれなかった。
―染物の赤髪…。
忌まわしい色から目をそらそうと遠くに目をやると、暗い森の入り口が見えた。引き寄せられるように永遠はその入り口目指して歩いていった。
五分くらい歩くと大きく口を開いた場所に着き、躊躇うことなく中に足を踏み入れた。中は暗くじめっとしていた。運悪く迷い込んだ者を飲み込んで、決して逃がすまいとする怪物のようだ。
だがそれでもかまわなかった。今はただ二人のヴァンパイアから離れていたかった。
単調に歩き続けているとエリカの言葉がよみがえってくる。とはいえ実際は聞いてから一度も消えることはなく、うるさいハエのように永遠の心にまとわりついていた。
―あんたなんてただの遊び相手よ、それも一時だけの。―
永遠はエリカの言葉に答えていった。
ええ、そうよ。私が取引を持ちかけ、彼はそれにのっただけ。
そして私は三ヶ月しか彼といられない。
―あたしはクリスチャンの婚約者よ。彼から聞いてるでしょうけど―
いいえ、それは聞いてない。彼はヴァンパイアについては話してくれたけど、自分のことは語らなかった。私は彼が結婚しているのかとも聞かなかったし、付き合っている人がいるのかとも聞かなかった。そして彼も言わなかった。
私に告げる必要がないから。
私はただの…ただの何? 都合のいい女? 栄養源?